武士の歴史 第1回

〜武士道の概略と第1期〜

瀬戸塾師範 瀬戸謙介

 武士道の概略
 武士道とは、日本人が人間として有るべき姿、理想として目指していた心の美学です。いかに美しく、気高く、誇りを持って人間として生き抜くか、そしてその為にはどのような心掛けで日々を送り行動すべきかの道を説いたのが武士道です。
 武士道と言えば「切腹、仇討ち、いさぎよい討ち死に」などを思い起こし、時代錯誤だと言う人がいます。切腹、仇討ちなどたしかに現代に合いません。だからといって武士道が時代錯誤だというのは軽薄すぎます。その時の社会状況によって形(表現方法)は違うのは当然です。今の時代、社会状況に合わせて歴史を考え、批判するのはいかなる時代に対しても間違いです。時勢によって当然変わって当たり前です。しかし武士道が求めている精神は普遍です。なぜなら武士道というものは突き詰めて見れば見るほど、「道徳」そのものだからです。武士道とは人間として取るべき正しい行動とは何かを求めた行動哲学です。
 「武士道とは我が国の武士が実行し、創りあげてきた我が国固有の道徳観です」ですから悪事を働く武士は武士道を心得ていない武士です。そして腕力に優れている事を以て武士道とも言いません。むしろ内面、いかなる精神を持って行動するかが最も大切な事とされています。もし腕力を主と考えるならばそれは暴力であって決して武士道と言うべきものではありません。
 武士道がいずれの時代に生まれてきたのかは確かな事は言えません。日本民族の発展と共に培われてきたものといえます。神話の中にも既に武士道の基となる話などがあります。但し、武士道が大いに発達したのは鎌倉時代以降のことです。
 仏教は釈迦、キリスト教はイエス・キリスト、儒教は孔子、イスラム教はムハンド(マホメット)それぞれが開祖とされていますが、武士道を説き広めた、いわゆる開祖に当たる人はいません。
 一般的な宗教はすがることができますが、武士道にはすがる相手が居りません。例えばキリストが「疑う事なかれ、信じる者のみが救われる」或いは日蓮が「南無妙法蓮華経」を唱えれば成仏する。と言っているように、宗教では神に全てを捧げ神の教えに従っていれば心の安らぎを得ることが出来ます。信者に心の迷いが生じた時には神にすがる事で解決します。そこには自己の判断を必要としません。しかし武士道には開祖がいません。長年の日本民族の習慣の中から出来上がってきた道徳、其れが武士道です。ですから武士道に於いては決断し、行動する事によって起こり得る全ての結果は自己責任、つまり全ての自分が選んだ行動に対し、どのような答えが出ようともそれを甘んじて受ける。これが武士道の基本的な考えなのです。
それは八百万(やおよろず)の神々を祭る神道的考え(神道も開祖がおりませんし、教義もありません)が軸となり、仏教(特に禅宗)、儒教の考えなどを取り入れ完成されてきました。
▼神道・・・自然への畏敬の念、全てのものに命が宿る(生命の大切さ)、人々が助け合って生きること、等の心根の上に、主君への忠誠心、先祖への崇拝、孝心、等を身に付けることで忍耐力、愛国心が生まれた
▼仏教・・・自分の心の内を見つめ直す手段として浸透していった。(運命に対する安らかな信頼の感覚、不可解なものへの静かな服従、危険や災難を目の前にした時の禁欲的な平静さ、生への無情、死への親近感)
日本に入ってきた仏教は、現世利益や先祖崇拝を説く神道に近いものになった。
▼儒教・・・武士が戦で身に付けてきた正直、廉恥、義理などを論理的に説いており、武士道を体系付けるのに役だった。
 
武士道の歴史
武士道の歴史は四期に分けられる
第一期・・・神武天皇(紀元前六六〇年〜鎌倉初期(一一九二年)
※第一期は仏教の伝来前が前期で、その後を後期と二期に分ける事が出来る。
第二期・・・鎌倉時代〜徳川時代初期(一六〇三年)
第三期・・・徳川時代〜明治初期(一八五七年)
第四期・・・明治時代〜昭和二〇年迄
 これまで武士道に関して様々な角度から瀬戸塾新聞に連載して来ましたので皆さんは武士道の精神とは何か、大まかには理解頂けていることと思います。それを踏まえて武士道を歴史の観点から探っていきたく思っています。
 四世紀頃に確立した氏姓制度、そのころから武士の原型が生まれた。大王(おおきみ)氏族を頂点とする大和朝廷が国土を統一し、大和朝廷が成立した。大和朝廷は有力な豪族たちの集団を「氏」と呼び、その氏を中心に統一された。氏は大和朝廷の構成員であり、それぞれの地位に応じて「臣(おみ)」「連(むらじ)」「宿禰(すくね)」というような「姓(かばね)」を与えた。これを「氏姓制度」という。
「姓」の中でも特に,「臣」「連」が一番上の位とされた。中臣氏、蘇我氏、大伴氏、物部氏などは大和朝廷における有力な豪族だった。軍事や裁判を担当していたのが「大連」の物部氏、大伴氏、財政や外交を担当していたのが「大臣」の蘇我氏、中臣氏であった。
 構成された氏族は、朝廷に対する忠誠心を何よりも大切と考えました。この忠誠心とは、私心を捨て去る「精明心」と呼ばれていました。
 ここに既に武士道の基本的精神の「私心を捨て己を律し公に尽くす」という考えが芽生えています。
 仏教伝来五三八年(五五二年説もある)。百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上したことが仏教伝来の始まりです。天皇は礼拝すべきかを臣下たちに問うと,大陸の優れた文化である仏教を受け入れるべきと蘇我稲目が答えたのに対して,物部尾輿や中臣鎌子らは外国の神を受け入れれば,日本古来の「神(国つ神)」が怒るという理由から,仏教に反対し,徹底的に排除するべきと述べ対立しました。
 五八七年とうとう物部氏と蘇我氏が戦い蘇我氏が勝利を収め、ここに蘇我氏が権力実権を握り、文治政治が行われ、聖徳太子によって冠位十二階(六〇三年)十七条の憲法(六〇四年)などが制定され、法制度や文化(仏教文化)等は発達しました。
六四五年大化改新・・・中大兄皇子、中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺する。
改新の詔の主な内容は以下の四つ
一,公地・公民(人民や土地は全て天皇のものである)
一,班田収授の法(戸籍を作成し、公地を公民に貸し与える制度)
一,国郡制度(日本を国と郡に分割して統治する制度)
一,租・庸・調の税制度(公民に税や労役を負担させる制度)

大化改新によって氏姓制度が廃止され、律令制度を根幹とする中央集権社会が形成されました。
大伴家持(七一八〜七八五)が、大王(おおきみ)に宛てた手紙の中に下記の文があります。

 「・・・海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば草 生(む)す屍 大王(おおきみ)の邊(かたはら)にこそ死なめ かへりみはせじ・・・・」
       (万葉集・巻第十八・四〇九四)

(訳) 海で戦えば水に漬かり屍となるだろう。山で戦うなら草に覆われた屍となるだろう。しかしどうせ死ぬならば、天皇陛下の御傍で死にたいものだ。この我が身など顧みることは無い。

 この歌を見ると、当時既に、武勇を尊び、名誉を重んじ、そして忠義の念が定着している事が分かります。武士道の要素が既にこの時代に出来ていたと言って良いと思います。(日本海軍歌「海行かば」はこの歌を元に作られました。)
 八世紀に大和朝廷には、近衛府、衛門府、兵衛府などの武官は置かれていたが専門的武人ではありませんでした。
 九世紀中頃このころになると律令制度も弱まり、公地公民が徐々に崩れだし、 荘園を持つ貴族や寺社、私田を有する土豪が出現し始め、それに伴って豪族によって組織された武力集団が現れて来ました。
 また農民の中から弓馬の技に優れたものを徴兵して朝廷に差し出すようになり、これらが武士の始まりと見られます。
 当時はまだ武士と言う言葉はなく、身分の高い人の側に常におり警護するところから「さぶらう」と言う言葉から「さぶらい」と呼ばれ、これが「さむらい」「侍」の語源です。
武士が本格的に日本の社会に登場してくるのは平安時代の中頃、十世紀からです。
十世紀には、武士が支配する村落が多数現れだしましたが、小領主としての武士の支配力は微弱なもので、悪政を行えば農民は武力で抵抗し、村全部が隣の領地に移り住むと言うこともありました。ですから武士は常に領民に対し反感を持たれないように、身を慎み、武技に励み、誠実な態度で接しました。このようにして、武士道の原型であるところの勇気、誠実、勤勉、慈愛などの徳目が養われてきました。
 このころより兵農分離が促進されだしました。武士は夜盗、盗賊を鎮定する事により段々と世の信用を得るようになってきました。
 中央では藤原氏が政権を独占したことから、まだ開墾されていない関東に下り、勢力を伸ばす貴族が出てきました。かれらは私財によって人を集め、大規模な開発を行い武士化していきました。未開の治安の悪い関東地方で開墾していくには財力と、強力な武力を持っていなければ無理でした。その中の代表が清和源氏であり桓武平氏です。
源氏/足利家、新田家、佐竹家、小笠原家、竹田家
平家/三浦家、千葉家、上総家
 当時、都人(みやこびと)の生活は一般的に言って、利害打算の上に成り立っていました。かれらは激しい政争の上で、内心と外形の使い分けすることを覚えたのです。平家が全盛になれば平家に従い、木曾義仲が平家を打ち破り都に来ると、田舎者と内心では馬鹿にしながら、旭将軍ともてはやし、義経が来れば掌を返したように受け入れる。中国もそうですが文治政治というものは、腹黒くどろどろとしたものになります。これに反し、武士達は、口先だけで世の中を渡ってきたのではなく、生身と生身をぶつけ合いながら、自分たちの生きる道を求めてきました。彼等は戦いの中から、卑怯を憎み、義のあるところ死をも惜しまない覚悟を身に付けてきたのです。
 当時の武士の戦いに於いて最も重視されたのは騎馬と弓射での戦です。馬を自由に乗りこなし馬上から弓を射て戦うには日頃の鍛錬が必要とされました。ですからこのころの武士のことを「弓馬の士」と呼んでいました。また武士道のことを「兵(つはもの)の道」と呼んでいました。
 彼等は戦場に於いて正々堂々と戦い武功を上げることを名誉としました。戦場ではまず鏑矢(かぶらや)を射あって戦いを始める合図をし、その後、陣から腕に覚えのある武士が馬を走らせ相手陣の近くまで行き「遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、我こそは常陸の住人、○○なるぞ」と名乗り、それに対抗して相手の陣からも出てきて名乗りをあげこの後一対一での戦いが始まります。その方法はお互いに馬を走らせながら矢を射り合うのです。この時故意に敵の馬を射ることは最も卑怯な行為とみなされました。中国の故事に「将を射んと欲さば、まず馬を射よ」と言うのがありますが、日本では最も卑怯な行為とされました。
 
ここでこの時代の武士の逸話をいくつか紹介します。
▽壇ノ浦の戦いで、義経は圧倒的に有利とされていた平家の軍船の櫓を漕いでいる水主(かこ)を矢で射るように命じ、それにより平家の軍船が次々と船足を奪われ立ち往生したところを襲いかかり勝利を収めました。しかし非戦闘員を攻撃させた義経の行為は武士(もののふ)にあるまじき行為として人々の激しい非難をうけました

▽「今昔物語」にある平良文(平将門の伯父)と源宛(みつる)(渡邊綱の父)の合戦の話なども良い例です。
 両軍数百の軍勢を従え対峙し「大将同志にて一騎打ちで決着つけよう」と両軍見守る中、平良文と源宛が激しく戦い、お互い全ての矢をかわし死力を尽くすが決着が付かず、和解し引き揚げる。以来親交を深めたと言った話があります。

▽前九年の役(一〇五一年、永承六)「衣川の戦い」では衣川の堤で行われた戦いで、東軍は敗走し、その将、阿部貞任も逃亡しようとした。そこへ攻め寄ってきた相手側の大将源義家が逃げる貞任にたいし大声で「きたなくも後ろを見するものかな。しばし引き返せ。物いわん」と言いながら弓を引き絞りながら「衣のたては ほころびにけり」と叫ぶと、安倍貞任は振り返り「年をへし 糸のみだれの くるしさに」と上の句を読み返した。すると、義家は引き絞っていた弓をゆるめ馬を返した。この奇妙な振る舞いの理由を尋ねられると、義家は「敵にあのように激しく攻められながら、心の平静を保っている人に辱めを負わせることに忍びなかった」と答えました。
 勇気とは冷静な行動のことです。激しく戦っている戦場に於いても心が乱されることなく心の平静さを保っていることが真の勇者だと言われます。例えば死に直面した時に辞世の句を書き残したり、詩を吟ずる心のゆとりの有る人が立派な人として尊敬されたのです。

▽源為朝 (鎮西八郎為朝)
 一一五六年七月十一日の保元の乱では父に従って崇徳上皇方に属す。軍議で為朝は夜討ちを献策するが「夜討ちなどは夜盗のする事」と藤原頼長に退けられる。その夜、後白河天皇方が逆に上皇方の本営白河北殿に夜討ちをかけてきた。西門を守る為朝は大いに勇戦し、平清盛、兄義朝をその強弓で撃退する。だが、義朝の献策により天皇方が白河北殿に火をかけたため、上皇方は遂に敗れる。
「保元物語」
この時の戦いで源義朝の配下で若干十九歳、初陣の「金子十郎家忠」なる者がおりました。戦う為朝の前に出て名乗りを上げ「御曹司の御内に、我と思わん兵は出合うへや」すると為朝が「心にくきほど立派な勇者だ、よくぞわしの矢の届くところまで出てきおった。ただ一矢で打ち落とそうと思うが、あまりにもそれでは興がない。誰ぞあの男を引っ捕らえてこい、ひと目みたいものじゃ」と言う。そこで九州より為朝に従ってきた高間四郎が打ち出いでるが逆に組みしかれ、それを見た兄三郎が駆け出でるが打ちと取られ、四郎の首も取られる。これを見た須藤家(いえ)季(すえ)が矢を射ろうとすると、為朝はこれを止め、
「おしい勇士だ、逃がしてやれ。今度の戦が、わが方の勝ちに終わった時には、おれの家来に加えてやりたい」と言って、金子十郎を逃がしてやった。
ここには勇気ある戦いに対して手強い敵の戦力をここで削ごうといった気持よりも、敵ながらあっぱれと思い、勇者に対し人間として認め合うと入った気持が働いています。そして能力のある者は敵であろうとう打ち負かした後には家来として使うと言った考えがあります。ここにチェスと将棋の違いがあるようにおもいます。
この保元の乱をきっかけに急激に貴族、公家の力が衰え、変わって武士の力が台頭してきました。              以上
 
 

 

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