〜空手道と教育〜
瀬戸塾師範 瀬戸謙介これは、2004年11月20日めぐろパーシモンホールにて開催されました瀬戸謙介師範の(社)日本空手協会片岡精励賞受賞並びに師範会ご就任を祝う会に於ける記念講演の内容です。 |
「空手と教育」(私が空手から学んだ事) |
今日は私が空手を通して何を身に付け、何を学んできたかをお話し致します。 初めに空手から学んだ事、それは「耐える」事 私が初めに空手から学んだ事、それは「耐える」事だったように思います。今、君達の先輩は優しく無理強いをあまりしませんよね。しかし私が空手を始めた頃の先輩方というのは「先輩という字は無理偏にげんこつと書くのだ」と教わった位、とにかく理不尽でした。もちろん、当時も心優しい先輩、面倒見の良い先輩等、素晴らしい先輩も沢山いましたが、中には大変な先輩達がいたのです。 例えば、電車に乗っている時に先輩が「お客さんにリクエストを聞いて来い」と言い出すのです。嫌ですが怖い先輩の命令なので仕方がありません。恐る恐る、椅子に座っているお客の中から人の良さそうなおじさんを選んで「済みません、何かリクエストはありませんか」と聞き、リクエスト曲を先輩に報告すると「では歌え」と言う。歌うと「声が小さいそれではお客さんに聞こえないだろう」といって歌い直しさせられます。 今の時代、電車の中でこの様なことをやると、とげとげしい雰囲気に成るかも知れませんが。当時はまだ軍隊の経験を持った人が多く、初年兵が古参兵に虐められ鍛え上げられることを良く知っている人が沢山いました。ですから電車の中の雰囲気も「兄ちゃん頑張れよ、そうやって強くなるんだから」と応援の声があがり、励ましてくれるような温かみがありました。 道場内ではこの様なこともありました。「瀬戸、そのまま動かずに構えていろ」と言って軽く当ててきます。痛いのを我慢して立っていると独り言のように「そうかここは急所じゃないのか」と言ってまた別の所を当てます。当てられて、たまらず崩れるように倒れると「そうかここが急所か」と独り言を言っています。つまり急所の人体実験をしているのです。痛いのを我慢せずに倒れると、「そこは急所で無いのは解っている、さっさと立て」と怒鳴られます。 私が白帯から色帯に変わると先輩の組手の練習台をさせられるようになりました。毎日毎日練習が終わった後、先輩に呼び止められ組手の相手です。毎日殴られ自分の鼻血で道着は血だらけでした。毎日道場に行くのが癒鬱でしたが、どういう訳か 時間になると足は自然と道場の方に向いていました。 休みたいと思う気持ちと休むと次の日がもっと大変だと思う気持が常にありましたが不思議と辞めたいと思ったことは有りませんでした。毎日のつらさよりも空手の魅力の方が勝っていたように思えます。そういう先輩以上に当時の空手協会の本部道場には技術的にも人間的にも素晴らしい先生方が沢山いらっしゃいました。ですから続いたのではないかと思います。 今の君達がもし先輩にこの様な事をされたらどうしますか?学校のクラブでこの様なことがあったら「イジメだ」といって不登校に成ってしまう可能性が大だと思います。しかし、このことが私の心を鍛えてくれました。目標を達成するためには辛いこと、嫌なことがあっても我慢して耐えることによって強くなることが出来るのだと言うことを学びました。つまり、自己抑制、自律心、自分の心を律する事を学んだのです。 |
自己抑制、自律心 |
今の世の中の風潮として、「自分の感情を抑えず、表に現すことが素直でよいこと」とされています。今や「自己抑制なんて何でしなければいけないんだ」とばかりに、欲しいものはガムシャラに獲得し、感情のままに泣いたり、笑ったり、怒ったりしています。それがまた素直で格好良いとされています。 テレビのコマーシャルでも人の良さそうなおじさんが、「カトちゃんペ」とやりながら、我慢は良くない、お金がなくてもカードが有るじゃないかと、カードで欲しいものは手に入れろ、とばかりにあおり立てています。 人間が自分の感情の抑制を拒否したならばどうなると思いますか。自分の感情がコントロール出来なくなるという事はすなわち、欲しい物が手に入らないとか、自分の思い通りに物事が運ばない、そうなると簡単に切れてしまうという事なのです。 昨今、今迄の常識では考えられないような事件が多発しています。それらの事件のほとんどが自己抑制が出来ないために切れる事によって起こっています。好き勝手に我が儘放題やることが個性だなんて、そんな教育を受けた人間が自己抑制出来るはずがありません。 今の世の中、何か欲しいと思った時ほとんどの物が我慢をしなくても手に入ります。せいぜい我慢しても半年か一年、しかし空手は違います。空手を始めた以上目標は「黒帯」です。黒帯になるには早くても4,5年長ければ10年近くかかる人もいます。今の世の中で手に入れるまでにこんなに長くかかるものは他には無いと思います。簡単に手に入らない黒帯、なかなか試合でも勝てない、即ち思い通りにならない大きな目標向って辛い練習を我慢し努力を続ける事が自己抑制、自律心を養い簡単に切れない子供に育っていくのです。 目的に向かって何年もたゆまぬ努力をする、そこに人間としての底力が付いてきます。 |
居直り |
先ほど道場では毎日先輩に殴られた話をしました。ある日、道場内で試合をすることに成りました。先生に「瀬戸、おまえ出ろ」と言われ紫帯の私も出る羽目になりました。初めての自由組手の試合です。相手は何時も私を道場の角まで追い込んで殴っている黒帯の先輩です。私は今日は試合だし審判がいるので先輩が乱暴なことをすれば審判が止めてくれるだろうと思い、心の中では普段の一矢報いてやろうとばかりに意気込んで向かって行ったのですが、一方的にやられ手足も出ませんでした。当時はまだ拳サポやマウスピースなどはありませんでしたので鼻血こそ出ませんでしたが口の中はずたずたに切れ、左目が青く腫れ上がりすごい顔に変形していました。家に帰っても食事がまともに出来ません。その時私はハッと気が付きました。普段の練習の時あんなに当てられてもこんなにダメージを受けたことがない事に。「そうか、日頃の先輩は手加減をしていてくれたのだ、殺す気はないんだ。自分が殺されるかと思うから逃げまどっていたのだ。先輩に殺す気がないのなら自分はそんなに逃げまどう必要はないんだ」そう思ったとたん不思議なもので次に練習後に先輩と組手をした時、今迄全然見えなかった先輩の動きが少し見えるようになり、攻撃も段々と躱せるようになってきました。 このように私が若い頃空手の練習で学んだことの第一は我慢し、耐えることでしたが、次に学んだ事は、「居直る」という事だったと思います。これは空手に限らず人生において居直ると言うことはとても大切なことだと思います。物事は、一つの事ばかりにこだわり、考え詰めると段々と視野が狭くなりどつぼにはまっていって回りが何も見えなくなってしまいます。そういった時は居直る事により物事を違う角度から見ることが出来ます。そうすると視野が広くなり、「なんだ、何で今迄こんな事で悩んでいたのか」と簡単に解決の糸口が見つかる事が多々あります。 悩み、考え、思い詰めること自体はとても大切な事です。徹底的に悩み考え抜く。その事によって人間は物事をしっかりと見つめる力が養われてきます。しかし最後には居直る事です。皆さんも気持ちが追いつめられた時には是非居直ってください。居直ったとたんに視野が広がり、気持がすごく楽になり、きっと強い意志とエネルギーが湧いてくるのを感じることがあると思います。 人生に於いて時には居直ると言うことは大切です。居直らないと自分を自分で追い詰め、破滅に追い込むこともあります。しかし「人生に於いて一大事なんてものは命に関わる事以外には無い」と思ったら気が楽になり新しい発想がそこから生まれてきます。 しかし悩みもせずに居直ってばかりいたのではどうしようも無い人間になってしまいますのでそこの所は勘違いをしないようにして下さい。 |
パワー イズ レスペクト |
私は、29〜31才までの2年間ハワイに空手の指導に行っていました。そこで学んだ事は。パワー イズ レスペクト、つまり「力こそが尊敬に値する」ということです。 私は日本にいた時、四谷道場という所で空手の指導をしていました。その時には、そこで指導しているというだけで習いに来ている人は(陰では何と言っているかは解りませんが)一応立ててくれました。そしてそれが当たり前のように思っていました。 先ほども話したように日本においては、先輩はどんな先輩であっても逆らうことは出来ないし、先生となれば相手は一歩下がり応対するといったことが当たり前だったのが、ハワイではそうはいかないということを学んだのです。彼たちはお金を払って強くなりたくて習いに来ています。ですからいくら日本から来た先生だからと行っても実力を見せなければ付いて来ません。 初め、パワー イズ レスペクトと言う言葉を聞いた時にはなにか違和感を感じました。「それは違うだろう。力だけではなく心の問題も有るだろう。尊敬とはその人の人間性に対してはらう物だよ。」なんて考えたりもしましたが、現地に行ってから、それは自分に対しての甘えだと気付いたのです。空手を教えに行っている先生には、生徒はそれなりの扱いをするのが当然といった甘えです。 空手は武道の前に武術でなければいけないのです。武術とは戦う技のことです。如何に相手を倒し自分が生き延びるかという為に考え出された戦う技、それが武術です。ですから理論ばかりで実際に弱い武術家など何の魅力も感じません。そんなことは自分が日本で空手を学んでいた時には当然に感じていたことです。だからこそ空手界で最高の厳しさと実力のある日本空手協会に誇りを持ち、学んできたのです。しかし日本の風習として先生や先輩を立てるのが当たり前といった考えが身に付き、自分が指導者になった時にはそういった考えの上に知らず知らずの内にあぐらをかいていたことに気づかされました。 当たり前のことですが常に自分を磨かなければ人は付いてこないと言うことを再確認させられました。その時船越先生が「空手は湯の如く、絶えず熱を与えざれば元の水に返る」と仰っていたことを思い出しました。 |
道場破り |
ハワイでは道場破りもずいぶん来ました。最初は「この道場から帰る時には絶対に立っては返さないぞ」とむきになって戦いやっつけましたが、それも何だか空しく感じるようになってきました。ある日道場破りに来た者に、「解った。初めにおまえに3分間やるから好きなように攻撃しろ、それを私が捌く。その後私が3分間攻撃をするから」と言うと、相手は我が意を得たとばかりにニコニコしながら「OK,OK」といって向かってきました。初めの1分間は威勢が良かったのですが、1分を過ぎる当たりから相手はくたびれて来て、終わりごろには息は上がり足はもつれふらふらになっています。私の攻撃の番になった時にはもう相手には戦意すら有りません。私は適当にあしらって帰しました。 ところが、またこのことがまた評判になりました「今度日本から来た先生は3分間相手に指一本触れさせなかった」と、おかげでハワイに行って半年で空手協会の支部がオハフ島に4カ所、ハワイ島に2カ所と6カ所も増えました。 |
覚悟 |
道場破りが来た時、私は負ける訳にはいきません。もし負けたらこれは瀬戸個人の恥ではなく「日本の国、日本人の恥」に成るからです。皆さんもそうです。もし外国に行った時にはあなた方の行動の評価はあなた方個人としての評価ではなく日本人としての評価を受けます。あなた方の行動一つ一つが「日本人とはこの様な人種だ」と言った評価になります。ですからもし私が負けた時には「なんだ、空手の本場だと言っている日本も大したことはない。もう日本から教わるものは何も無い」と思われます。ですから私はもしも負けたら生きて帰るつもりはありませんでした。そういった意味では私は常に「覚悟」をしていました。 道場破りに来る連中は金儲けを目当てに来ています。つまり損得勘定で来ているので、本当の意味で「自分を棄てきる」と言った覚悟が出来ていません。ですから私は負けるはずはないと思っていました。 物事に立ち向かう時、この「覚悟」と言うものがとても大切です。人間「覚悟」さえ決めれば恐いものはありません。しかしなかなかこの覚悟を決めると言うことは難しいことです。人間覚悟が決まらないから様々な迷いが生じるのです。いろいろ考え、迷う事もとても大切なことですが最後は決断を下しその決断に対して覚悟をすると言うことがとても大切なことではと思います。 武道とは「覚悟をすべき時には覚悟をする」ということを教えてくれるものだと思います。 |
武士道 |
多くの空手を始める人、あるいは子供に空手を学ばせたいと思っている親御さんにとって、空手が「武道」だからと言った理由で始める或は始めさせるケースが大だと思います。空手を指導している人も空手は単なるスポーツではなく武道だととらえている人が殆どだと思います。空手の大会などでも「武道精神にのっとり正々堂々と戦ってください」と言った挨拶をよく耳にします。空手イコール武道だという考えに異論を唱える人はまずいないと思います。 では、武道精神とはいったい何を持って武道精神というのかと聴くと多くの人は「礼儀正しく、正々堂々、強い精神を養う」と答えます。しかし、もっと突き詰めて聴くと、武道精神に関して漠然と解っていてもハッキリとこれが武道精神であると答えられる人は少ししかいません。 |
伝統文化とは |
日本の伝統文化と言うと皆さんは何をまず思い浮かべますか。多くの方は「能、歌舞伎、狂言」等と答えます。たぶん今日来ているほとんどの方もこの様に答えると思います。能、歌舞伎、狂言等はもちろん日本の伝統文化であることは間違い有りませんし、これらは海外にも日本の伝統文化として多いに紹介されています。しかし、能や歌舞伎は大衆芸能文化であり、本当の意味において日本の文化を代表するものではありません。(大衆芸能とは娯楽性に重きを置いたものであって精神を磨く為に生まれてきたものではないからです) 伝統文化というとやはりその国の芯となる文化のことを指します。この文化がなければその国は国として自立していけないそういったものが本当の「伝統文化」です。では何をもってその国を代表する文化かというとそれは、伝統と歴史によってはぐくまれてきた、「日本独自の精神文化」のことです。私達は日本の文化を学ぶと言った時にはこの「日本独自の精神文化」を学ぶことだと理解すべきだと思います。華道、茶道、武道など、日本の文化は「道」を求める文化だと言われます。ではその「道」とはなにかと言うと。この「道」こそが日本の「精神文化」なのです。 以前、空手の指導者でこの様なことを言った人がいます。「空手は武道です。ですから武道はとても大切に思います。ですが武士道は嫌いです。なぜなら武士道とはサラリーマンの処世術みたいなものだから」また、ある先生は、私が武士道の勉強の大切さを説くと「きみ、武士道とは支配者階級の考え方だろう。民衆から搾取する考えをなんで勉強しなければいけないんだ。」と真っ向から武士道を否定しました。私が今から3、4年前に初めて大崎で武士道の勉強会を始めると言った時に「先生、なんで武士道の勉強なんかするのですか。武士って悪い人でしょう。悪人の考えなんか勉強する必要が何処にあるのですか」と言ってきた者がいました。私は一瞬彼の言っていることが理解出来ず、思わず聞き返してしまいました。すると彼は「テレビの水戸黄門などの時代劇に出てくる侍は悪代官をはじめとし皆悪人じゃないですか」と言うのです。私は、なるほど先程の空手の先生といい、今の人達の武士に対する情報とはそんなものなのかとガッカリすると同時に「危機感」を抱きました。 私達が何気なく使っている、武道、華道、茶道と言った「道」は、人間として「品良く」「気高く」「立派に」生きるためにはどうすれば良いのかといった「追求」の道のことを意味しています。人間として立派に生きる為といった「精神」を学ぶための「道」です。この精神を求める手段として様々な「道」が有るのです。武道、華道、茶道などはその精神を学ぶための入り口として利用しているに過ぎないのです。日本人として求めるべき精神の根幹をなすもの、それこそが「武士道」なのです。ですから武道は大切だが武士道は嫌いだと言う人は武士道とはなんたるかを理解していない人の言う事です。 |
武士道とはどのようなものか |
まず武士道の徳目とは何かと言うと、勇気、誠実、礼儀、勤勉、慈愛、廉恥、忍耐、気概、寡黙、卑怯を憎む等が挙げられます。こういった徳目を目指して努力することにより人間としての品格が備わってきます。この徳目からお解りのように、武士道の素晴らしさは他人に対してどうこうしろと指図するのではなく、内なる自分を磨き、自分の心を律し、徳を積む。そうすることによって自分が立派な人間になり、世の中の為につくそうという考えが基盤となっています。ですから先程の、「武士道とはサラリーマンの処世術みたいなもの」とか「武士道とは、民衆から如何に搾取するかの教えである」とか「武士は悪人である」と言った考えは間違った理解の仕方です。 |
なぜ武士道を学ぶと精神が鍛えられるのか |
それは、武士道は正邪善悪の区別を付け、悪を憎み、徹底的に「善」を求め、自分を鍛えそして悪に立ち向かっていく勇気を説いているからです。皆様もそうだとは思いますが良い事を行っている時には後ろめたさはありません。ですから行動にも迷いがありません。自分の行動が世の中に照らし合わせて絶対に正しいことだといった確信が有れば何も恐れるものはないからです。この、「世の中に照らし合わせて」と言った考えが大切です。一人よがりな価値判断ではいけません。 世の中にとって何が正しくて、何が悪か、正邪善悪の区別を付けるためにはまず「正しい志」を待たなければいけません。そして其の志が正しいかどうかの分別を養う必要があります。その為には大いに勉強し、知性や理性を養い、思慮を高める必要があります。ここをしっかりと押さえておかなければただ単に武道が大切だといっても精神を鍛えることは出来ません。世の中で一番困る存在は、無知の誤った善意の押しつけです。(これを私は乙女チックな善意と呼んでいます。よくいますよね、目を星のように輝やせながら、善意のつもりで軽薄な行動を取っている人種が)本人はいたって真剣で真面目なのですが思慮が浅いためにかえってその考えや行動が世の中を乱していることに気が付かないのです。 ですから皆さんは空手を学び強い意志を身に付けるのと同時に、良本を読み、立派な人に会って自分を磨き、思慮を深め、視野を広げる努力をしなければいけません。 |
武士道は個の否定である |
武士道が世間から敬遠され、否定されてきた原因の一つは「個の否定」にあるかと思います。武士道は徹底的に個人の存在を否定しています。個を否定し公に尽くすことを本分としています。このことが戦後教育の「個人の尊重」といった個人主義とは相反するので反発を受けました。 先日も有る人に、「人間の幸せの基本は個人が如何に幸せに成るかと言うことですよ。まず個人が幸せに成らなければ、家庭が幸せにならない。家庭が幸せに成らなければ、社会がよくならない」と言われました。今日会場にお見えになっているほとんどの方はこの意見に賛成だ思います。しかし、本当に個人の幸せだけを追求する社会が良い社会になると思いますか。個人の幸せの追求、それも必要かも知れませんがそれだけでは世の中は良くなりません。個の幸せの追求は利己主義を生み出します。自分さえ幸せになればといった我が儘で回りが見えない人間が出来上がってきます。そういわれると皆さんもそれに類する事に心当たりがあるでしょう、電車の中で回りなどお構いなく平気で化粧をする人などがそれです。 本当の幸せというものは、いくら個人レベルの幸せを追求しても得られないのです。個人の幸せなんて世の中が変わればいっぺんに吹っ飛んでしまいます。イラクを見ても、北朝鮮を見ても分かると思います。いくら個の幸せを求めていても世の中が、即ち国が良くならなければどうにも成りません。個人の幸せを徹底的に追及しその者が権力を得ると、どの様になると思いますか。それは歴史が証明しています。ヒットラー、スターリン、金正日みたいに皆独裁者となって国民を苦しめます。 本当の幸せというものは社会が安定し素晴らしい国であることです。私達が属している国、この国が素晴らしくなければ個の幸せなどあり得ません。ですから武士道は個の欲望を徹底的に否定し、公に尽くす事を説いているのです。個人の欲望を達成しようとすれば必ず世の中を歪めてしまいます。欲望を棄てた所に人間としての正しい道「正道」が見えてくると説いているのです。武士道は私心私欲を無くし、如何に公のために生きるかを追求した行動学なのです。 先程武士道の徳目を上げました。勇気、誠実、礼儀、勤勉、慈愛、廉恥、忍耐、気概、寡黙、卑怯を憎む、これらの徳目を聴いて何か感じませんか。そうです、これらはすべて道徳の基本とされるものです。武士道とは、日本民族が長い年月を掛け考え作り上げた「倫理観」「人生哲学」なのです。そしてその内容を良く吟味してみると「道徳」そのものなのです。ですから武士道というものはどう考えても「道徳」なんです。正しいことを行うための心得それが武士道です。 |
国の繁栄 |
国の繁栄とは、すなわち如何にその国の精神文化を高めるかということです。精神文化をおざなりにした民族は心の芯が無くなり滅びていく運命に有ります。伝統的な精神文化こそが日本の未来を創る力となるのです。皆さんも空手を学んでいる以上、日本の精神文化で有る武士道を学び、身に付け是非「立派な人間」に成るように努力してください。 絶えず自らの価値を高めようと、自己鍛錬を続け、思慮深く立派な人間に成ってください。そういった人間が増えたならば、世の中は正しい考えが正当な評価を受けるようになっていきます。 正しい事が正しいと正当に評価を受け、正しい考えと行動を起こせる人間が社会の中に相当高い密度で存在する社会は間違いなく良い国になっていくのです。国民の質の高さこそがその国のレベルを表します。明治維新の時、白人の国以外で植民地にならなかった国は日本だけです。その理由は当時の日本民族の教育レベル、人間としての質がとても高かったからです。 皆さんも是非空手を通じて日本の精神文化を学び自分を磨き人間としての質を高める努力をして欲しく思います。 |