〜「空手に先手なし」〜

瀬戸塾師範 瀬戸謙介
 
                        (2000,10,31発行 JKAニュース10号に掲載記事)
 船越義珍先生の空手二十ヶ条の二十番目に『空手に先手なし』という教えがあります。そしてこの教えは、空手家のみならず武道を修行している者ならば知らない者はいないと言って良いほど有名な言葉であり空手の修行に於いて非常に重要視され、武道の本質をついている言葉だと思います。
 「我」という字は、手と戈とが合わさって作られたといわれております。この文字から察するところ、昔より人間は手に武器を持ち、争いに余念が無かったものと思われます。そして、その争いを治めるのが武士です。「兵乱を止める‘武’の字を分ければ、戈と止となる、故に戈を止めるを武の本義とす」(宣十二)と記されているように、武というものは世の乱れを平定し、平和をもたらすものでなければなりません。つまり、武力というものは世の安定の為、人類の平和のために有るのであって安易に行使してはならないといっているのです。
 空手もやはり同じ事です。空手を一生懸命修行して身につけるということは、実は空手を使わない為の修行なのです。「空手に先手なし」の精神は、あらゆる武道精神の根幹を成すものです。ではなぜ、他の武道では敢えて唱えていない「先手なし」という言葉を空手ではわざわざ表に出し、力説したのでしょうか。

 空手とは、自分の五体全てを武器と化し、丸腰のまま相手に接近し、一撃のもとに相手を倒す武術です。刀などの武器を用いる場合には先ず柄(つか)に手を掛け、刀を抜かなければ人は切れませんが、空手にはその必要がありません。間に入れば、何時でもその体勢から攻撃が出来、相手に構える余裕を与えません。また、刀を抜くいうことはどちらか一方の死を意味しており、人間よほどの覚悟が無ければできることでは有りませんが、素手での喧嘩となれば意外と気楽に行います。ましてや血気盛んな若者、腕に覚えのある者にとっては、習い覚えた技を使いたくてウズウズしているものなのです。それを戒める為に敢えて「空手に先手なし」と言い、先ず耐える事を学ばせ、空手とは人を傷つける為のものではなく、内なる心を磨く為に修行する事が本来の目的であり、君子の武道である事を説いたものだと思います。

 東恩納寛量先生は、入門希望者に対しすぐには入門を許可せず、門弟に調査をさせ、乱暴で喧嘩っ早い者に対しては入門の許可を与えないなど、入門に対して大変厳しかったと言われております。

 最近では随分薄れてはきましたが、まだまだ空手のイメージというものは他の武道と比較して、一般的にあまり良いイメージではとらえられていないように思います。それは、修行を積むことにより、一般人では考えも付かないような破壊力を秘め、それを見せつけられた人々に驚きと近寄りがたい脅威の念を植え付けた事に起因しているのではないでしょうか。また、喧嘩カラテなどと称してケンカを奨励するような指導者がおり、それをマスコミが興味本位に取り上げた事も空手を武道ではなく品の無い喧嘩技として世間に広まっていったことも原因の一つに挙げられるものと思います。しかし、空手本来の姿というものは「戦わずして勝つ」ことであり、卑しくも空手を修行した者が他人に対し、好戦的な態度を取ったり、増してや危害を与えるような事はもってのほかです。

 空手の全ての「形」が受け技から始まっている事から考えても、いかに空手の開祖である人々は「空手に先手なし」を重要視し、「形」においてその精神を表現しているかという事が理解できると思います。また、その受けの殆どが前に踏み出して受けています。ここが空手精神の面目躍如たるところだと思います。踏み出して受けるということは、相手の技をただ単に受ける、さばくという消極的な受けではなく積極的な受けを表しております。前に出て受けるという事は相手の起こりを抑える事であり、不意の攻撃に対しても決して不覚をとらず、何時でも対処できるように常日頃から心掛けていなければならない事を意味しているものと思います。

 古来より、構えの心掛けとして「身に構えなく、心に構えあり」と言われておりますが、同じように空手に先手はないけれども、心構えは相手に気押しされること無く常に先手先手といかなければならない事を出合いの受けは教えているのだと思います。
そして「空手に先手なし」の神髄は、技を先に仕掛ける事を戒めているのではなく、争い事自体を戒めているのです。
 内に秘めたる力と、謙譲の心、和の精神をもって人に接すれば争い事など起こらない事を言っておるのです。これこそが「武道」の精神なのです。
                                      以上

 

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