〜空手と心〜
海外指導を通して
今日は「空手と心」と言った題でお話しいたしたく思います。 私が今までにアメリカを初めとし、イギリス、オーストラリア、香港などと様々な国々で空手の指導をしてきました。その指導を通して感じたことを今日はお話いたします。 |
初めて海外に指導に行ったのは今からちょうど25年前。25年前と言えば私は29才です。心身共に一番気合いの入っているときで、向こう見ずの怖い者知らず、血気盛んな時でした。 25年前、初めて指導に行ったところはハワイです。着いたその日の夕方、早速空手の指導がありました。道着に着替え道場に入っていくと、すでに会員は勢揃いをしており「オス、オス」と言って緊張の表情を浮かべながら挨拶をしてきました。私も丁寧に挨拶をしました。ひととおり挨拶をし終わったとき、180センチ以上は有ると思われる黒帯を締めた一人の若者が私の前に来て「先生組手をお願いいたします」と言ってきました。私は彼の突きとか蹴りを一回でも見ていれば彼のだいたいの技量が解りますが着いたとたん、まだ準備運動もしていないうちに申し込まれ、「さあーて」と思ったのですが、周りを見ると興味津々、「新しく日本から来たちっこい先生はどの程度の者か」といった気持ちが私に伝わってきました。ここで「練習が終わってから相手をしましょう」と言えるような雰囲気ではとうてい有りませんでした。私も覚悟を決め「OK」と言って道場の真ん中に歩いて行き、お互いに挨拶をし、構えようとし相手を見たら、自信満々らしく構える様子が見えませんでした。 実は、私がハワイに赴任する5年ほど前に日本からA先生が来てハワイで指導していましたがA先生はとんでもない暴れん坊でした。日本での出来事ですが、練習が終わり、飲みに出かけた時のことです。そこでやくざに絡まれ大乱闘と成りました。警察官が駆けつけてきた時ちょうどA先生は最後の一人を蹴倒したところでした。先生は自分は悪いことをしていないのでその場で警察官が駆け寄ってくるのを待っていると、警察官がやにわにA先生に手錠を掛けたのです。「なんだ貴様等俺は悪くない」と言うが早いか周りにいた警官十数人を手錠を掛けられたまま蹴りで蹴倒してしまいました。ですから、古い会員は日本から来た先生を怒らせては大変と冷や冷やものだったそうですが、彼はA先生がハワイを去ってから空手を始め、私が初めて接する日本人指導員だったのです。 彼が構えないのを見て、私も構えるのを止めスタスタと歩いて近づき、相手の急所を思いきり蹴上げ、前のめりに成ったところを、相手の顎を引っかけるようにしながら回し突き入れたところ相手は倒れ気を失ってしまいました。 その時、他の会員に「先生約束組手なのに急所を蹴ったり止めないで殴るのは反則ではないか」と抗議を受けました。私は彼たちに「これは約束組手ではない、私はハワイに空手の先生としてやってきた、その先生に対し、来た早々試合を申し込むのは礼儀に反している。決して遊び半分で来たのではない。それを明らかに私を試そうと言った姿勢で組手を申し込んでくることは決闘を申し込んできているのと同じです。命が有っただけ彼は私に感謝すべきです。日本には三歩下がって師の陰を踏まずと言った言葉があります。そう言った気持ちが無ければ真の空手は学べない」と言って答えたところ、みんなは納得してくれ、逆にこの出来事のおかげで相互の理解が早まり、私がどんなことを言っても文句一つ言わずよくついて来てくれました。 私にやられた本人は、それからというもの私がどこへ行くのも必ず私の鞄をもって後ろから付いて来ました。とにかく私から何か教わろうと何時も謙虚な態度で私に接してきました。ですから私も彼のことはすごく可愛がり、どんな質問でも丁寧に答え教えてやりました。 |
ハワイに赴任した当初、今の日本では考えられないのですが1年間ぐらいはよく道場破りが来ました。道場破りに来るのは、空手よりもボクシングとかカンフー、タイカンドーと言った他の格闘技の方が多かったです。 一例をあげますと、私が道場で空手の指導していますと一人の男が入ってきて入り口の事務机の上に座り、ガムを噛みながらにやにやしながらこちらを見ていました。私は内心、なんて無礼な奴だと思いながらも指導をしていました。指導が終わると彼が私の方に近づいてきて、「おまえの空手はなんの役にも立たない、あんな受け(揚げ受けの真似をしながら)をしたってパンチが受かるわけがない、どうだ俺のパンチを受けてみるか」と言ってボクシングの構えをしました。私は断ろうとしましたが聞き入れる様子が全く無く益々挑戦的に成ってきました。彼は、はなから道場破りのつもりで来ているのです。ですから私が何を言おうとも引き下がるつもりが無いのです。ここで私を破り私の弟子を引き抜こうと思って来ているのです。 仕方なく彼の挑戦を受け入れ、私が道場の真ん中で礼をし構えると、相手はボクシングの構えをして近づいてきました。ボクシングは必ず近い間合いから、ワン、ツーとパンチを繰り出してきます。その繰り出してくる瞬間を待ちました。そして相手が動いた瞬間、体を沈め、足払いをしたところ、両足が宙に浮いて頭から床に落ち、したたか後頭部を打ちました。彼は頭を抱えしばらくうずくまっていましたが、やがてふらつきながら立ち上がり私に文句を言ってきました。「さっき、パンチの受けはこうだ(揚げ受けの真似をしながら)と教えていたではないか、なぜそうしなのだ、おまえは嘘つきだ」と怒り出しました。私は、あれはあくまでも基本であり、空手には様々な技があると説明し、普通に立った姿勢から内回し蹴りを彼の頬に皮一枚で決めて見せました。彼は一瞬何が起きたのか解らなかった様子でしたが、風を切り頬をかすめたのが蹴りだと解ると早々に帰っていきました。 |
ある会員が私に「アメリカはパワーイズ、レスペクトです、ですから実力のない人には、誰もついて行いてきません」と教えてくれました。これを初めて聞いたときには少し驚きましたが。しかしよく考えてみるとその通りだと思います。日本人は、とかく先輩だと言うことで誰も文句を言わなくなる為、努力を怠り権威だけを振りかざす先輩が多い。先輩は常に努力している姿を後輩に見せることが大切なのに、日本人はそれを忘れてしまっている嫌いがあります。そこに甘えがあるように思えます。その点アメリカは厳しいです。 当時のアメリカはちょうどベトナム戦争が泥沼化し、「アメリカ イズナンバーワン」といった誇りと自信が少し揺らぎだした時でした。街にはベトナムからの帰還兵が人生に生きる価値を見いだせなくなり、マリファナやLSD等のドラッグがはびこり、社会全体が非常に荒廃していました。アメリカ社会全体が、今までの西洋の物質文明に疑問を持ち、東洋の精神文明に新たなる心のよりどころを求めだした頃です。当時、海岸の岩壁の上や、森の木の根元などでヒッピーがヨガや座禅を組んでいる姿をよく見受けました。空手を習いに来ている人達も、空手の破壊力のすごさに魅力を感じていると同時に、日本の精神文化にとても憧れ学ぶ姿勢が有りました。 日本人に対する評価もその当時は「勤勉で、礼儀正しく、謙虚で意志が強く、誇り高い国民だ」といった畏敬の念をもっていました。人種差別の激しい南部に行っても日本人だけは特別扱いでした。公衆トイレでさえ当時は、白人と黒人は別々でしたが、日本人は白人と同じトイレに入ることが許されていました。 |
そして今でも外国で空手を学んでいる人達は、「空手の心」を大切にしています。諸外国では空手を武道として捉え、その精神文化を学ぼうとしていますが、残念なことに現在の日本では逆行しています。武道イコール格闘技という間違った方向に進んでいます。 今、テレビでK−1などの格闘技が流行っています。ああいった試合を観ると私は非常に嫌悪感を覚えます。人間としての知性や理性のかけらも感じられないからです。思いっきり相手を殴る、蹴る、倒れた相手に馬乗りになって殴りつける。あの姿はどう見ても人間ではなく、野獣そのものの姿だと思います。本当に思いっきり蹴った技が相手の顔面にまともに入ったのならば確実に脳に悪影響を及ぼすのは間違い有りません。下手をすれば相手は廃人になってしまいます。他人を廃人にする権利は、いかなる状況といえども誰にも無いと思います。 私も以前、空手の試合で顔面を当てられ倒れた事があります。その時は一週間ぐらい、買い物のお釣りの計算が出来ないというか、めんどくさくて考えようとする気力がなくなりました。 |
古くから武道は精神修養になると言われて来ました。そして私も空手は武術ではなく武道として捉えています。 人殺しの方法として生まれた様々な「技」、それをいかに有効に活用するかとして組み立てられたのは「術(武術)」です。その「術」に宗教観、哲学、倫理等が加わったのが「道(武道)」です。「人間いかに生きるべきか」「正義とは何か」「覚悟とは」そして「いかに美しく生きるか」等を常に自分に問うて行くのがこの「道」です。 武道の基となる武術はあくまでも人殺しを目的として生まれた「技」です。いかに相手の「虚」を衝き相手を倒すかということを、実践の場において研究した殺傷の技術です。したがって、修行の仕方、心掛けいかんでは凶器へと人間を変身させます。そのような者を多く世に出すことは一種の社会悪と言っても過言ではないと思います。 ですから空手の修行の目的はあくまでも武道としてであって格闘技であってはいけないと思います。格闘技とは力によって相手をねじ伏せ勝敗にこだわり、勝つことだけが全てだと言った考え方です。 |
もちろん、空手も最初は戦いの技術として生まれてきたものです。ですから絶対に強くなければ意味がありません。精神面ばかりを強調していると理屈ばかりの頭でっかちで鼻持ちならない人間が出来上がります。ですから武道を学んでいる者は、強いということは絶対条件というよりも最低の条件だと言うことを心得ておかなければいけません。その上に「人」としての「心」「倫理」「道徳」等を学び身につけることが大切なのです。武術を学び、身に付け、強くなると言うことは優しい心を身に付けるための修行なのだと考えるべきです。人は強くなければ心身共に素直に他人を認め、受け入れることが出来ません。強いからこそ自信が生まれ、素直に心を開くことが出来るのです。 武道を学ぶと言うことは、世の中を正々堂々と正面を向いて歩いていくための「心」を鍛える手段、方法なのです。驚き、恐れ、怒り、憎しみ、打算等が起きない澄んだ「こころ」、その「心」を求めて励むからこそ武道は精神修養になるといわれてきたのです。ここを忘れていると間違った方向に進んで行くのです。 |
私は武道、宗教、哲学の最終の目標は、「愛」ではないかと思っています。キリスト教で言うところの「愛」、仏教で言うところの「慈悲」儒教で言うところの「仁」それぞれ表現、手段は違いますが目的は同じだと思います。人を素直に愛せるにはやはり心身共に強くなければいけません。そうでない者の愛は媚びです。こうすれば相手によく思われるのでは、といった打算があり、そういった心は卑しいです。ですから人間は常に自分を鍛え磨く努力が必要なのです。 |
私は空手を始めてから約40年経ちます。皆様に40年間も続けてきた事のお褒めの言葉を頂くこともありますが、だいたいはあきれ顔をされます。口の悪い私の友人などは「たかが空手、突きと蹴り、同じ事を40年もやっていてよく飽きないね」と言われます。空手は色々な複雑な技を学びますが、究極のところ、この突きと蹴りしか無いのです。しかしこの単純な突きと蹴りですが今だに新たな発見が有るのです。突いた瞬間、今までに味わうことの出来なかった感覚が体中を駆けめぐることが有るのです。それはほんのちょっとした腰の動き、肘の使い方、足の張り、そして気の置き所によって今まで気付かなったものが、突いた瞬間に「そうだ今まで求めていたのはこれだ」と気付く時が有ります。ですから今だに空手を辞められないのです。普通のスポーツは体力の限界が選手生命の終わりといいますか引退の時期ですが、空手や剣道と言った武道は体力の限界を「気」でカバーできるところに魅力があります。どんなに血気盛んで体力に自信があり、技にスピードが有ったとしても気が練れていなければ駄目です。ここに武道としての空手の妙味が有ります。 私は今、目黒、大崎、恵比寿で空手を教えています。大崎での指導は去年で20周年を迎えました。私も含めここに練習に来ている人、全員がボランティアでこの会をもり立てています。習いに来ている人のほとんどは社会人です。60才を越えてから習い始めた人もいます。私は習いに来ている人達に強くなって欲しいと思うのは当然ですが、それよりも道場に来ていい汗を流し、昼間の仕事でたまった邪気を発散し、新たなる精気を蓄え、明日へのエネルギーへと変えてもらえたらと思っています。 時間に成りましたので、私の話はこれで終わらせていただきます。 |
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