第七回論語勉強会

〜「温故知新」〜

瀬戸塾師範 瀬戸謙介

 (原文)
    子日、温故而知新、
    可以爲師矣
  (書き下し文)

子曰しいわく、ふるきをあたためてあたらしきを 知る、

もっるべし。  
                      (おんしん)   為政篇第二

 多くの人は「故(ふる)きを温(たず)ねて」といった読み方で教わってきたかと思いますが、現在、論語研究者の間でどちらが正しい読み方であるかは二分されています。しかし、「温」という字は、肉をとろ火でゆっくりと煮込みスープを作るという意味なので「あたためる」と読む方がより良いのではと言った意見の方が主流になりつつあります。
 私も、冷えたスープをもう一度じっくりと温め直すのと同様に、過去の出来事をもう一度我々の感性で温め直し生き返らせるといった意味に捉えた方が良いように思います。
  ( 解釈 )
先生がおっしゃいました「歴史上の出来事をしっかりと検証し、真実を見抜く力を養ったならば、これから起きる事柄に対して正しい判断を下せるようになる。そのようなことがしっかりと出来れば師(人を教え導く人)となることができる。」
 つまり、歴史や古典、素晴らしい人間の生き方などを学び、真実を見抜く見識(目と心)を養うことにより、人間として筋の通った素晴らしい人生を歩むことが出来るということです。
 なぜ、我々は歴史を振り返るかというと、そこには現実に起こった原因と結果がはっきりと見えるので検証する事が可能だからです。古人は、どのように悩み苦しみ、そして自分の人生に立ち向かっていったのかがよく解るからです。
 私達が人間として素晴らしい人生を歩む為には、常に反省がなければ人格は出来てきません。そして反省するときには良心というものを持ち合わせていなければ、良き反省というものは生まれてきません。悪事を働き失敗した時に、次に失敗しないようにするにはどうすればよいかと考えることも反省のうちですが、そこには良心というものは存在しません。
この良心を育てるには、偉人が残した素晴らしい言葉や、彼らが力強く生きたその「生きざま」を学ぶことがとても大切です。そして彼らの情熱、足跡に触れることによって心が洗われ、そして反省が生まれてきます。私達は偉人が歩んできた精神に一歩でも近づこうという気概を持って努力せねばなりません。
私達は、あまりにも情報過多の時代に住んでいます。情報を得ることにより自分もこの時代の一員であるといった安心感を持ち、大量に流れている情報が本当に必要であるのかどうかといった検証もせず満足をしてしまいます。しかしほとんどの情報は不必要なものなのかも知れません。
人間が人間として生きる為に本当に必要なものは何か、私達はここで一度立ち止まってじっくりと考えて見る必要があるのだと思います。本当に人間の生きる道を教えてくれるのは人類二千年以上の歴史に刻まれた記録や古典です。この中にこそ素晴らしい人生の礎となるものは記録されているのです。
人間の心理、本質は二千年前に書かれた「論語」の時代とたいして変わってはいません。
 たしかに、文明は格段の差を以て進歩しています。これからもますます加速度的に進歩して行くでしょう。しかし、文化に関してはさほどと言うよりもある意味では退化しているかも知れません。天平時代に造られた仏像は今の芸術家が束になっても適わないほど素晴らしい芸術作品です。
論語もそうです。今でも人々の心を捉え、実生活に於いても通用することが書かれているからこそ多くの人に論語は読まれ続けているのです。
巷に流布しているメディアの情報だけに浸って満足している者には、本当の意味で「今」を知ることは出来ません。過去を知ることによって初めて今、現在我々が行っていることの意義や間違いを見いだすことが出来るのです。
史実を過去の再現としてのみ捉えるのではなく、現代社会に当てはめて考えることによって新たな光を当て、そうして今に活かすことによって今まで歴史の流れの中に埋もれ死んでいた古典が生き返ってくるのです。歴史を今に活かすことで、今を知る。これが大切なことです。
王(おう)充(じゅう)(後漢時代の人)の言葉に
 古きを知りて今を知らざる、これを陸沈(りくちん)という。(歴史をいくら勉強しても現実を見ることの出来ない者は、陸沈、すなわち陸上で溺れ死ぬようなものだ)
今を知りて古きを知らざる、これを盲瞽(もうこ)という。(現実ばかりに目を向け、過去に立ち返って反省をしないものは、盲目(めくら)である)
ゆえに、故きを温めて新しきを知りてこそ、以て師と為る可(べ)し、古きも新しきも知らずして、師と称するは何ぞや。
といっています。この言葉は本当に的を射ている言葉だと思います。  以上
            ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 日曜勉強会の後で龍大君が、「故きを温めての“ふるい”という字は僕達は【古】という字を習ったのに何故【故】と言う字を書くの?」とお母さんに聞いたそうです。私はこの話を聞いた時とても嬉しくなりました。
 私が小学生に論語を教えようと思うと言った時、ほとんどの人は「小学生には難しくて理解出来ないのではないか」と否定的な意見でした。しかし当時まだ二年生だった龍大君は習った論語をちゃんと暗記しお母さんに「今日習った言葉だよ」と暗唱を披露した後、この疑問を投げかけたそうです。疑問を持つと言うことは一生懸命話を聞き自分の頭で考えているからにほかなりません。
 「古」「故」どちらも、ふるい、むかしのといった意味があります。「古意」「故意」という二つの熟語があり、どちらも「こい」と読みます。「古意」の方は、いにしえをしのぶ心、昔を懐かしく思う気持ちといった意味です。「故意」は意図的に、自己の行為が一定の結果を生むことを認識して或る行為をした場合の心理状態のときに用います。つまり、ここで「ふるきを温める」場合には、何となく昔を懐かしい気持で思い出すのではなく、昔を検証した結果自分はそこからなにを学ぶのか、つまり結果を求めての行為ですから「故」の文字を用いているのです。
 
 

 

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