(訳)
「どうしよう、どうしよう」と言わない者は、私にもどうしようもない。
ここで「どうしよう、どうしよう」と言うのは単に思い悩んでいるのではなく、深く物事を追求する過程で答えが見つからず悩んでいる状態を指しています。
則ち「憤(ふん)せずんば啓(けい)せず。悱(ひ)せずんば発(はっ)せず」の憤や悱の状態です。
物事に対して、これはどのようなことを意味しているのか、どうすれば良い答えにたどり着くことが出来るのかと常に疑問を持って追求する者に対してでなければ、先生がいくら教え導こうとしても相手の心が教えを受け入れる状態になっていない限りどうにもしてやることはできない。
つまり、教わる者に向上心がない限り、教える者がいかに頑張ってもたいした効果はあがらないと孔子は言っているのです。
空手が上手くなりたい、勉強が出来るようになりたい等々、何に対しても自分の目標に対してどうすれば上手くなるだろうか、どうすれば理解出来るだろうかと常に考えることが上達の第一歩です。
そういう研究心、探求心がない者は絶対に上達しないし、教え導く方法もありません。
道元禅師の話
ある時、弟子が師の道元に聞きました。
「人間は皆仏性をもって生まれていると教えられたが、仏性をもっているはずの人間に、なぜ成功する人としない人がいるのですか。」
*仏性・・・人が皆生まれつき持っている仏としての心
道元は「教えてもよいが、一度自分でよく考えなさい。」と言いました。道元の弟子は一晩考えたがよく分からない。翌朝、弟子は師を訪ね、再び聞いた。
「昨晩考えましたが、やはり分かりません。教えて下さい」
「それなら教えてやろう。成功する人は努力する。成功しない人は努力しない。その差だ。」
弟子は、ああ、そうか、と大喜びした。だがその晩、また疑問が湧いた。同じく仏性を持っている人間に、どうして努力する人、しない人がでてくるのだろうか。
翌日、弟子はまた師の前に出て聞いた。
「昨日は分かったつもりになって帰りましたが、仏性を有する人間に、どうして努力する人と、しない人がいるのでしょうか。」
「努力する人間には志がある。しない人間には志がない。その差だ」
道元の答えに弟子は大いに肯(うなず)き家に帰ったが、しかしその晩、またまた疑問が湧いた。仏性のある人間にどうして志しがある人とない人が生じるのか。
弟子は四度師の前に出て、そのことを問うた。道元は言う。
「志のある人は、人間が必ず死ぬということを知っている。志のない人は、人間が必ず死ぬということを本当の意味で知らない。その差だ。」『正法眼蔵随聞記』
この様に道元の弟子は常に「これを如何、これを如何」と悩み考えたからこそ師から教えを乞うことが出来、またそれを理解することが出来たのです。
皆さんも常に物事の本質を求め、探求心を忘れないことが大切です。以上
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