第二十五回 論語勉強会


瀬戸塾師範 瀬戸謙介

(原文)
         子曰、
             吾嘗終日不食、
             終夜不寝、以思。
             無益。 不如学也。



(書き下し文)
    
  子
(し)(い)わく、
        吾
(わ)れ嘗(か)って終日(しゅうじつ)(く)らわず、
        終夜
(しゅうや)(い)ねず、以(も )って思う。
        益
(えき)無し。 学ぶに如(し)かざる也。  
                       (衛霊公第十五・三一)

(訳)
 私は、若いころ一日中食事を取る事も忘れ、一晩中寝ずにものごとについて考えたことがあるが、何の益も無く無駄であった。やはり読書し、先人に学ぶのが最良の方法である。
 小学生や中学生の皆さんは、先生の話が時々難しくて分からないことがあると思うけれど、どうしてだと思いますか。それは君達にはまだ先生が何を言いたいのか深く理解できるだけの知識が無いからです。
 知識の無い人がいくら一人で考えても考えられる範囲は限られています。やはり物事をより深く理解し、判断力を高めるには多くの人の書かれた本を読んで勉強し知識を高めなければいけません。
江戸時代の寺子屋の教科書「実語教」に、
「山高きが故に貴(たっと)からず、樹あるをもって貴(とうと)しと為す」山は外見が良い(山が高い)から素晴らしいのではなく、山は多くの樹木を有し自然に豊かな恵みを与え育んでいるからこそ尊いのだ。と教え、次に「人肥えたるが故に貴からず、智あるをもって貴しと為す」と続いています。これは、いくら財産があても人間としての進むべき道(知恵)を心得ていなければ立派とは言えない。と説いているのです。つまり、学問の目的は自分を磨くことであり、決して高い地位を得ることや金儲けのためではないというのです。地位や名誉は結果として後からついてくるものだと。
 「子供の個性を伸ばすためには強制はいけない、強制的に物事を教え込ませるとせっかくの子供が持っている良い芽をつみ取ってしまう、自由に考えさせ、行動さすことによってそのこの個性が伸びる」という意見を言う人が世の中には多くいます。子供の教育を考える講演会ではこういった意見を持つ講師が喜ばれるみたいで、しばしばこういった意見を耳にします。先日も講師の女性弁護士が「私は娘が小さい時、学校に行く時に着る物は本人が納得いくまでじっと我慢して選ばせた。もし私がこれを着なさいと押しつけたならば、その子の個性が磨かれなくなるからです。学校の制服もそうです。あれは没個性でよくありません。みんな同じカラーに染まり個が無くなってしまい、感性を磨くことが出来ません」と言っていました。
 服装一つで没個性になるような個性は個性とは呼べません。自分をしっかり磨いた中から光り出してくるのが本物の個性です。たとえ同じ制服を着ていても輝いて見える、それが個性です。
 服装にしても人生にしても同じです。よい材料を持たずにいくら考えても決してよい結論には達しません。「下手の考え休むに似たり」です。人間の思考範囲というものは、自分が今現在備えている器の中でしか考えることが出来ません。だから多くのことを学び、様々な角度から情報を得て、自分の器を大きくすることが大切です。
 また、人間の物事のとらえ方や考え方は、得た情報の質に左右されます。たとえば、現在多くの人々は南京大虐殺は有ったと思っています。これはGHQ(連合国総司令部)が、アメリカ軍が行った東京、名古屋などの大都市無差別空襲(まずは焼夷弾を都市の周りに落とし逃げられないようにして、その中に絨毯爆撃をおこなうという都市で暮らしている市民全員の殺戮を目的とした作戦です。この行為は明らかに軍事施設ではなく、一般市民を狙いうちにした大虐殺genocideです。)や広島、長崎における原爆の非道を隠す為に、中国政府の宣伝に乗っかり、GHQの報道統制により一方的な情報を流した結果、ほとんどの日本人は何の疑いもなく南京大虐殺は有ったと信じるようになったのです。
 私は様々な情報を比較検討した結果、南京大虐殺は無かったと確信しています。しかし、無かったことを無かったと証明することは非常に難しい事です。無から有を生み出すことは不可能だからです。
 以前、痴漢容疑で捕まった人が自分は痴漢をやっていないといくら言っても、絶対にやったという前提で取調官は対応する為全く話を聞いてくれなかった。やっていないことをやっていないと証明することは非常に難しく、有罪にされそうになったが、女性の証言を一つ一つ当時の状況を再現し切り崩していくことで無罪を勝ち取ったというニュースを聞いたことがあります。
 南京大虐殺も同じです。肯定派の人達が南京大虐殺の証拠だと示している多くの写真に関して、膨大な資料と地道な検証によって、それらが作為的に造られた合成写真、或いはまるで関係ない場面の写真などであり、全てが偽物であることを一枚一枚証明している書籍『南京事件「証拠写真」を検証する』『再現「南京戦」』等々がここ数年の間に沢山出版されています。南京大虐殺肯定派の本多勝一(元朝日新聞記者)の『中国の旅』などをはじめとする多くの本や資料とこれらを読み比べることによって、私は南京大虐殺は無かったと確信するに至りました。  孔子は決して「思う」ことを否定しているのではありません。論語の第四回目の勉強会で「学んで思はざれば則ち罔(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」というのを学んだことを覚えていますか?
 このように、孔子は決して「学」を重視して「思」を軽視していたのではありません。別の章でも「文、質彬彬(ひんぴん)として、然るのち君子なり」ともいっています。
「吾れ嘗て終日食らわず、終夜寝ねず、以って思う。益無し。学ぶに如かざる也。」この言葉はきっと孔子は勉強もしないで理屈ばかりをこねている若い弟子たちをたしなめた言葉だと思います。                          以上

瀬戸塾新聞第30号掲載記事

 

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