第二十一回 論語勉強会
瀬戸塾師範 瀬戸謙介
(原文) 子曰、君子喩於義、小人喩於利 |
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(書き下し文) 子曰わく、 君子は義(ぎ)に喩(さと)り、 小人(しょうじん)は 利(り)に喩(さと)る。 里仁第四(一六) |
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*君子・・・人格のすぐれた人。 *喩る・・・奥深くまで知ること。よく知っていること。 *義 ・・・正しい道理、正義、道義。 *小人・・・人格の劣った人。 (訳) 君子は物事を判断するにあったて先ずそれが正しいか、道義にかなっているかを考え、小人は何事においてもまず利益になるかどうか、損得を考える。 |
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(解説) 君子と小人とはその心の在り方がまったく違います。君子は事に臨んで、まずそれが正しいことか、道義に適っていることなのかどうかを考え、それを行動の判断基準とします。これに対して小人は常に自分の利益を優先させて物事を捕らえ、損か得かを行動の判断基準とします。得することであれば、たとえそれが道義に反することであっても利の方を優先させます。 天下国家を考えなければいけない国会議員の中に君子といえる人物は何人いるのだろうか?どう見ても利に執着している人物ばかりしか目に付かない。情けない限りです。国民も、地元に予算を分捕ってこない議員にはどんなに国の事を考え奮闘していても評価しないといった傾向があります。 先日、テレビで石破防衛大臣の地元でのインタビューを聞き、「ああ、これが国民のレベルか」と思う事がありました。インタビューを受けた地元の人が「石破さんは、防衛だの国の事ばかり言っているが、そんなもの地元には何の利益にもならない。地元は今、仕事が無くて困っている。今まではずっと自民党に投票してきたが、今度は民主党に入れる」と言っているのです。国民の考えがこれでは国会議員は国の事を考え大局を見る事が出来なくなります。何故なら、選挙で当選しなければ政治家として活動出来ないのに、投票する国民が自分達の利益しか考えていないからです。 西郷隆盛は「南洲翁遺訓」で政治家の心得として次のように述べています。 「道義心や恥を知る心を失っては、国を維持する方法はありえない。それは西洋の各国でも同じである。上に立つ者が下の者に対して利益だけを求めて正しい道義を忘れてしまうと、下の者も上に倣(なら)って、人の心はみな金儲けの方ばかり向いてしまう。上に立つ者は、つねに下の者の見本で有らねばならない。」 「万民の上に位置する者は、おのれを慎み、品行を正しく贅沢を戒め、倹約に努め、職務に努力をして人民の見本とならねばならない。そして民衆がその働きぶりを見て『気の毒だな』と思うようでなければならない。」 「ことの大小を問わず、どのような事でも正道を歩み至誠を推し進めよ。決して事の策謀を巡らして事を成そうとしてはならない。多くの者は事柄が上手く行かなかった時には策略を用いて、一時は成功したとしてもその策略の付けは必ず後々になって表れて駄目になってしまうものだ。正しい道をもって行うならば、一見遠回りのように見えるが、これが本当は成功への早道なのである。」 西郷と正義 「正義を敬し、それを実行する。」正義が広く行われること、これが西郷の考えでした。そして文明に対する定義でもありました。「文明とは正義のひろく行われることである。豪華な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない」 西郷にとって「正義」ほど天下に大事なものはなかった。自分の命はもちろん、国家さえも「正義」より大事ではなかった。 西郷は更に言いました。 「正道を歩み、正義のためなら国家と共に倒れる精神がなければ、外国と満足できる交際は期待できない。その強大を恐れ平和を乞い、みじめにもその意に従うならば、ただちに外国のぶべつ侮蔑を招く。その結果、友好的な関係は終わりを告げ、最後には外国につかえることになる。」 「とかく国家の名誉が損なわれるならば、たとえ国家の存在が危うくなろうとも、政府は正義と大儀の道にしたがうのが明らかな本務である。戦争という言葉におびえ、安易な平和を買うことのみに汲々するのは、商法支配所と呼ばれるべきであり、もはや政府と呼ぶべきではない。」 まさに「正しかれ、恐れるな。」である。 政治家が同じ事柄に対して、天下国家、国民のためを考えて行動するか、議員バッチに執着し票の為にと思って行動するか、この違いは国に対して大きく影響しますし、その人格、品位にも雲泥の差となって現れます。 中国の故事 孔子が生きていた時代(春秋戦国時代)、晋という国がありました。晋の国王の献公(けんこう)が虢(かく)の国を攻めるためにはどうしても 虞(ぐ)の国を通過しなければ行けませんでした。そこで大臣の荀息(じゅんそく)が「我が晋国の宝であるところの垂棘(すいきょく)の玉と王さま(注)が一番大事にしている名馬を贈れば、かならず領内を通過することが出来ましょう」と進言しました。献公は「垂棘(すいきょく)は我が先祖から伝わってきたもの、また私が一番大切にしている馬を贈って、もし虞の国が通過を許可しなかったならばどうするのだ」自分の大切な宝物を失うことを心配する献公に対して「ご心配には及びません。虞公は目の前の宝物に目がくらみ通過することを許可するでしょう。もし、領内の通過を許可しないのならば贈り物は受け取らないでしょう。欲に目がくらみ通過の許可を出したならば、その宝物は一時よその国の倉庫に保管してもたったようなもの、馬は、ちょっとその国の厩舎に預かってもらったようなもので後のことはご心配に及びません」献公は「それならば」といって荀息(じゅんそく)の進言に従いました。 虞公は名玉と名馬を献上され大喜びし、さっそく領内の通過許可を出そうとしたところ、臣下の宮之奇(きゅうしき)という者が進み出て「許可してはなりませぬ。 虞(ぐ)と虢(かく)との関係は、車輪と添え木の関係にあります。車輪がなければ荷車は動かないし、添え木がなければ荷車に積んだ荷物は落ちてしまいます。虞と虢はお互いに依存しあってればこそお互いの国が存続出来ているのです。もし晋軍の領内通過を許可し、虢が滅ぼされたあかつきには、虞が次なる標的となり必ずや攻められ、虢の二の舞となりましょう。どうか許可はお出しにならないように。」といさめましたが、欲に目のくらんだ虞公は苦言に耳を傾けることなく晋軍の通過を許可しました。虞領を通過した晋軍は虢を討ち滅ぼし帰還しました。それから三年後、晋軍は今度はやはり虞を攻め滅ぼしました。晋の大臣の荀息(じゅんそく)はさっそく虞公の宮殿から玉と馬を取り戻し、献公の前に差し出しました。献公は大喜びし、荀息の策略を誉めたたえました。 義を忘れ目の前の利に飛びつくと虞公のような結果になります。やはり人としての行動には大儀、正義が伴っていなければ一時は得したように思っても結果としては身の破滅を招くということをこの物語は物語っています。 「君子は義に喩り、小人は利に喩る」そのものですね。 注:日本で領主のことを「殿様」と呼んでいたように、中国では「公」と呼んでいました。ここでは解りやすいように「王さま」と書きました。 |
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瀬戸塾新聞第29号掲載記事 | |