第二十回 論語勉強会


瀬戸塾師範 瀬戸謙介

 
(原文)
         子曰、不憤不啓、
             不悱不發、
             擧一隅而示之、
             不以三隅反、
             則吾不復也、



(書き下し文)
    
  子曰わく、 憤
(ふん)せずんば啓(けい)せず、
         悱
(ひ)せずんば発(はっ)せず。
         一隅
(ぐう)を 挙(あ)げてこれに示し、
         三隅
(さんぐう)を以(も)って返(かえ)らざれば、
         則
(すなわ)ち復(ふたたび)せざる也(なり)。 
                    述而第七(八)

  

  *憤・・奮い立つこと。発憤。自ら心を励ましもだえる。
   傍から見ていても心が疑問でいっぱいであることがわかる状態。
  *啓・・ひらく。説明をして心を開いてやる。
       解るようにしてやること。
  *悱・・何かを言いたいがうまい言葉が見つからず
       口をもぐもぐさせている状態。
(訳)
 憤(ふん)せずんば啓(けい)せず
問題に真正面から立ち向かい、もう一息と言う所まで来ているが最後の出口が見つからず、行き詰まりいらだっているような時でなければ啓(みちび)いてやるようなことはしない。
悱(ひ)せずんば発(はっ)せず。
 理解しているのだけれども、上手く言葉で表現出来ず口ごもっているときでなければ声を掛け教えてやらない。
 一隅(ぐう)を 挙げて(あ)これに示し、三隅(さんぐう)を以って(も)
返(かえ)らざれば、則(すなわ)ち復(ふたたび)せざる也(なり)。 

 四角い物の一隅を示したならば残りの三つの隅まで理解し、全てを含めた答えが返ってこないようであれば、まだ教わる素地が出来てないので素地が整うまでは再び説き教えるようなことはしない。 



 
  (解説)
 山にマグマのエネルギーが満ちあふれ今にも噴火する直前には、山は脹らみそれから爆発噴火します。そのような状態と同じように、心が憤した時、つまり弟子が自分自身で努力し充分な知識を蓄えたにもかかわらず答えが見つからず自分ではどうにもならなくイライラし、今にも爆発しそうになったとき、あるいは頭では理解しているのだけれども上手く表現できないときに、はじめて手を差し伸べヒントを与え答を導いてやる。それが私の教育方法である。またいくら知識の蓄積があっても、一つのヒントを与えることで様々な角度から物事を捕え、考え、理解出来るようでなければ、まだまだその知識は本物となっていないので、持っている知識が血となり肉となるまで黙って待つ。
 孔子の勉学に対する態度の厳しさがこれを読むとよく解ります。私たちは物事を教わるとき、手取り足取り痒い所に手が届くように教えてくれなければ「あの先生の教え方は下手だ」と評価しがちです。我々は解らないことがあると自分で考えずにすぐに質問し、またその様な生徒を積極性があって良しとするような教育を受けてきました。「解らないことがあったらまず考えましょう。」ではなく「解らないことがあったら何でも質問しなさい。」です。
 しかし孔子は違います。先ず自分で考え、悩み、勉強しなさい。そうしなければ本当の学問は身に付きませんよと言っているのです。
 この文章を読む限り孔子は弟子に対してとても厳しく、学問に対して情熱のない者は相手にしないと受け取られそうですが、実際の孔子はとても弟子に対して思いやりがあり、それぞれの才能、個性に応じた受け答え、指導を行っています。この文章は学問を学ぶ者の心得を解いたもので、孔子が実際にこのような態度で弟子に接したかどうかは別問題です。
 諸君にも何か物事に対して関心を持った時にそれを解明したくてたまらず、気持が高ぶり貪欲に情報を集めるといった経験があったと思います。また、議論していて相手の意見は何だかおかしいと感じても、直感でそう思うだけで上手く理論立て出来ず、論破することが出来ない。そのようなこともよくあると思います。そのような時にこそヒントを与えてやると今までの知識の回線がつながり、深く物事を理解するようになるのです。
 学問をするには暗記も大切ですが暗記ばかりが中心の勉強では、この「憤する」という感情は湧いてきません。理解するということと暗記するということは全く違います。理解するとは、物事の本質を正しく知って一隅を挙げただけで、ただちに他の三隅を見出し、全体像を捕らえて物事の本質を見極める事の出来る能力のことです。



瀬戸塾新聞第29号掲載記事

 

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