第十八回 論語勉強会


瀬戸塾師範 瀬戸謙介

 
(原文)
         子日、視其所以、觀其所由、察其所安、
             人焉痩哉、人焉痩哉、




(書き下し文)
    
    子曰わく、
    其の以
(もっ)てする所を視(み)、其の由(よ)る所を観(み)
    其の安
(やす)んずる所を察(さっ)すれば、 
    人
(ひと)(いづく)んぞ痩(かく)さんや、
    人(ひと)
(いづく)んぞ痩(かく)さんや。

  

 *其の以てする所を視・・・その人の行動をよく見る。注視する。
 *其の由る所を観・・・・・行動そのもののみでなく、行動の動機(なぜ、そのような行動を取ったのか)をよく観察する
 *其の安んずる所を察する・・その落ち着く所というのだから、その行動の目的とするところ、(どのような結果を求めての行動なのか)それを考察する。
以上の三つについて観察を重ねれば、「人焉んぞ痩さんや」その人間の本性は隠そうたって、隠しきれるものではない。

(訳)
 その人の行動を注視し、その人が何故そのような行動を取ったのかを観察し、その人の行動目的、結果を調べたなら、その人の本性を隠そうとしても隠しおおせるものではない。どんな人でも隠せるものではない。心の底まで見抜けますよ。


 
 (解説)
 皆さんは神様の存在を信じますか?いるとしたらどこにいると思いますか?神様は私たちの身近に(八百万の神々)あるいは宇宙の遙か彼方に住んでいると一般的には考えられています。私たちのご先祖さまは、大地、自然、動植物、身の回りあらゆるものから恵みを頂くことにより人間は生きていくことが出来ると考え、感謝し、全てのものに神が宿り私たちを見守ってくれているのだと信じていました。
 良心
 そして、神様は私たち一人一人の心の中にも住んでいます。心の中に住んでいる神様は時々「良心」といった形で私たちの心に問いかけてきます。皆さんが悪い事をした時には何となく後味が悪い思いをするはずです。それは君たちの心にいる神様が「そんなことをしていいのか」とささやきかけ、良心が「うずく」からです。
 例えば何か「しまった!」と思った所を想像してみてください。これがテストの答えを間違ったなど失敗した時には良心が「うずく」ような事にはなりません。むしろ次には間違わないように更に勉強し頑張るぞ、と思うはずです。しかし、人として間違ったことをした時に感じる「しまった!」は、良心の呵責(かしゃく)に苛(さいな)まれ、罪悪感を伴い良心が「うずく」はずです。
 それにも拘わらず悪事を積み重ねていると、初めはおどおどと悪事を働いていたのがだんだんと良心の「うずき」が薄れてきてその手口が徐々に大胆になっていきます。「良心のうずき」が無くなってしまった人、そのような人は神様に見放された人です。良心の「うずき」が無くなった人は悪いことが平気で出来ます。その時は一見得をしたように見えますが、その人の人生、すなわち一生といった単位で見ると決して幸せな人生を歩むことは出来ません。必ず天の神様(お天道様=太陽)が私たちの行動を見ています。ですから人が見ていないからと、影で悪いことをしても必ず後でその報いがその人の身に降りかかってきます。

 恥の文化
 昔はよく「お天道様(おてんとうさま)がみている」と言っていました。昔の人はお天道様に恥じない行い、つまり自分の良心に恥ずかしくないかを常に問うていたのです。
 以前も話したことがありますが、高知出身で三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎、(1835~1885)が事業を始める時に大変な金額を借用しました。その借用書の最後に「何時々までに返済致します。もしその期日までに返済しなければお笑い下され」と書きました。皆さんは笑われることで、数億円もの借金がチャラになるのなら、その方が得だと考えるかも知れませんが、昭和20年以前の日本人にとって、約束を破り人様に迷惑をかけた事で笑われる。これは自分の命を落とすよりも屈辱的なことだったのです。
 また、江戸時代までの日本では商取引において、ほとんどの場合契約書など交わしませんでした。契約は口約束です。契約を交わした後、最後に一言、お互いに「見てござる」と言葉を交わしていました。何が見ているかと言えば、天が見ているのです。昔は「お天道様に恥じない行いをしなければいけません」「お天道様は何時でも見ています」とよく言われたものです。このように人間はいつでも「隠れて悪いことをしても、おてんとう様はお見通し」といった気持を持っているべきだと思います。
 そして「契約に反すれば天に見放されますよ、それは自分の良心、心に恥じる行為ですよ」とお互いに言い合ったのです。今や、私達はこの「見てござる」という言葉を忘れてしまっているようですが、この気持は大切にしなければいけないと考えます。そして良心に恥じない、最終的に評価を得る行為とは何かをはっきりと自覚しなければいけません。
 江戸時代は「恥を知る」心が日本人の本能や欲望による行動を抑制し、人に笑われ行為は人としてとても恥ずかしいことだという内的な規制の共有により社会の秩序が保たれていました。
 「人焉んぞ痩さんや」という言葉を二度、繰り返しています。それは「隠しきれるものではありません」ということを強調しているわけです。
 いかに隠しても何時かは必ずばれるものです。その時はばれなくても、そのうちに「あいつはこんな事をしていたのか」ということがわかってくる。つまり、どんなに巧妙に隠しても、隠しきれるものではありませんよ、ということを孔子は二度の繰り返しにより警告しています。
 リンカーンがいった言葉に「一時、特定の人を騙すことはできる。しかし、常にすべての人を騙しきることはできない」というものがあります。これはまさに真実のほどは隠す事はできないと言う事です。その人の本質に至ってはすぐにわかってしまうと言うことなのです。私達も自分の良心に恥ずことのない様な行いを日々心掛けていきたいものです。


瀬戸塾新聞第28号掲載記事

 

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