第十四回 論語勉強会

瀬戸塾師範 瀬戸謙介

 
(原文)その1
     子貢問曰、如何斯可謂之士矣、
     子曰、行己有恥、使於四方不辱君命、可謂士矣、
     曰、敢問其次、
     曰、宗族称孝焉、郷党称弟焉、
     曰、敢問其次、
     曰、言必信、行必果、經々然小人哉、抑亦可以爲次矣、
     曰、今之従政者如何、
     子曰、噫、斗筲之人、何足算也、



(書き下し文)
  子貢(しこう)問うて曰わく、如何(いかん)ぞ斯(こ )れ之(こ )れを士(し )と謂)うべき。
  子曰わく、己(おのれ)を行うに恥じ有り、四方(しほう)に使いして、君命(くんめい)を辱(は )ずかしめざる士(し )と謂うべし。
  曰く、敢(あ )えて其の次を問う。
  曰わく、宗族(そうぞく)は考(こう)を称す。郷党(きょうとう)は弟(てい)を称す。
  曰わく、敢えて其の次を問う。
  曰わく、言(げん)必ず信(しん)。行い必ず果(か )、經々(こうこう)然(ぜん)として小人なる哉。抑(そもそ)も亦(また)以って次と為すべし。
  曰わく、今の政(まつりごと)に従う者は何如(いかん)。
  子曰く、噫(ああ)、斗筲(としょう)の人、何(なん)ぞ算(かぞ)うるに足らん也。
                                (子路、二〇)


  
(訳)
子貢が「どのような人物こそが士と呼ぶに値する人物ですか」とたずねたところ。孔子さまがおっしゃいました「自分の行動に対して恥を知っている者、つまり自分の名を汚すようなことは決してしないことを自分の行動原理にしている者、使者として派遣されたならば、立派に役目を果たし、国を辱める事がない。そのような者を士といえよう。」
 敢えて「次に士と呼べる人物の条件は」とたずねました。宗族(広い範囲の同姓の者)郷党(一万五千軒の単位を郷と呼び、五百軒を党と呼んだ)つまり多くの親類の人から「考」親孝行だとほめられ、「弟」村中で兄弟に対する愛情があると言われるような道徳をわきまえている者が次なる士と言える。
 敢えて「次に士と呼べる人物の条件は」と三度たずねたところ。「言った言葉には偽りが無く、信頼が出来、行動は果敢で決断力があり言った事は必ず行動する。がちがちの融通の利かない小人ではあってもこのような者その次の位置に置くことが出来よう。
 更に子貢はたずねました「現在、政治に携わっている人達は士と呼ぶに値するでしょうか」孔子さまは嘆きながらおっしゃいました「ああ、升で量る事が出来る程度の小者ばかりで、とても問題にはならない」
*經々(こうこう)・・・角張った(かくば)印象をいう擬態語(ぎたいご)
*斗筲(としょう)・・・斗(と)は1斗升(いっとます)で1升の十倍、約18リットル。
  筲(しょう)は1斗(と)2升を入れる竹の器。転じて人の器量の小さいことをいう

 「己を行うに恥あり」
 恥ずかしい、不名誉であることを行動規範の一つとする。こういった感覚はもはや今の日本人には無くなってしまったのかもしれません。まず一番感じるのが、公共事業の無駄使いなど指摘されても絶対に非を認めない役所の会見。悪事がばれても言い訳に終始し、絶対に責任を取ろうとしない政治家や企業の経営者達。
 かつて三菱財閥の創始者の岩崎弥太郎が旧大名家より借用した時の借用書には、岩崎弥太郎は何時までに返済すると期限を書き、もし約束を違えた時には「お笑いください」と書かれているだけでした。「お笑いください」は明治以前、岩崎の証文に限らずよく書かれていた言葉です。今の時代の人だったら「笑われる程度で借金がチャラになるのなら安いものだ、多いに笑らって結構」と思うかも知れませんが、恥を知っている人間にとって、名を汚す事は死ぬことよりも辛く感じるという心のたたずまいを感じます。
 「己の行うに恥あり」には自分の倫理観を問われているのです。自分が行おうとする行動が正しいのかどうか、全て自分に問いかけているのです。たとえ敵が幾万有りとても自分が正しくないと判断したならば決して迎合しない。この妥協しない意志の強さを生み出すのが「恥有り」です。
 この言葉は武士道精神の要である「名を惜しむ」に通じるものです。
「四方に使いして、君命を辱めざる」
 孔子が生まれた春秋時代末期、紀元前五五二年頃、始め百四十余り有った諸侯国が、その後強国が弱小国を併合して十余国になっていた頃で、まだまだ弱肉強食の時代です。
 一国の使命を帯びて使者として赴く場合にはよほどの覚悟が必要でした。特に弱小国の使者は一歩間違えば首をはねられ、命を奪われます。そのような状況にも屈することなく、自分の国の立場をはっきりと主張し相手を納得させるにはよっぽど肝が座っていなければ出来るものではありません。
 小村寿太郎は日本の外交史上最も優れた人の一人だと思います。日露戦争の停戦条約を身長一四三㎝のこの男が、一八〇㎝を越えるヴィッテを相手に一歩も引かず、礼を尽くし、卑屈にならず、言うべきことは言い、外交術に長けしたたかなヴィッテを寿太郎は人格的に敬服させ、もはや日本には戦争持続力がない中、見事に条約を締結し使命を果たしました。これは正に「四方に使いして、君命を辱めざる」を実行した人物です。
 士とは、人間としての教養を備え、正しい判断力と倫理観を持ち、礼儀をわきまえ、腹が据わっており、自分の意志をどんな迫害、圧力があっても屈することなく貫く人の事です。

佐久間艇長
 一九一〇年(明治四十三年)四月十五日、広島湾沖で潜水訓練中の潜水艇が遭難する事故が起きました。海水が潜水艇の内部に入り込み、後ろに大きく傾き海底に沈んでしまったのです。艇長の佐久間勉と乗組員十三人は、艇を浮上させようと排水などの手段を尽くしましたが、成功せず、やがて、乗組員全員が呼吸困難のため窒息死するという痛ましい事故でした。日本海軍が初めて潜水艇を保有したのは、日露戦争が終わった一九〇五年(明治三十八年)秋の事です。潜水艇とは潜水艦の小さなもので、六号艇とも呼ばれ、佐久間艇長が乗っていた艇は全長22m、世界最小でした。当時の潜水艇はまだ開発途上で構造的に不備が多く加えて潜行技術も試行段階であった爲に起きた事故で、乗組員の人的ミスは有りませんでした。
 数日後、佐久間艇は引き上げられました。潜水艇の遭難事故はヨーロッパでも度々起きており、引き揚げられた艇の扉を開けると、扉の内側に多くの乗組員の遺体が群がり、乗組員同士の乱闘のあとさえありました。何とかして助かろうとして、水明かりのするハッチに殺到したためと思われます。ですから、関係者たちの間では佐久間艇もそのような状況かもしれないと思われていました。ところがハッチを開けると、艇長の佐久間は司令塔で指揮を取ったままの姿で息絶え、機関中尉は電動機の側に、機関兵曹はガソリン機関の前に、舵手は舵席に、空気手は空気圧搾管の前に、十四名全員がそれぞれの部署を離れず艇の修復に全力を尽し、各々自分の持ち場にて絶命しており、取り乱した様子が全く無かったというのです。
 その後、収容された佐久間艇長の遺体のポケットから遺書が発見されました。沈没後電燈が消え、酸素は刻々と消費されていき、ガソリンの気化ガスが艇内に充満し、おそらく部下は一人また一人と相当な苦しみの中で絶命していったことと思われます。佐久間艇長はそのような環境の下、遺書に、天皇陛下の艇を沈め部下を死なせる罪を謝し、乗組員全員が最期まで職分を守った事を述べ、部下を死なせてしまった罪を謝り、部下が最後まで沈着に任務を尽くしたこと、また、この事故が将来、潜水艇の発展の妨げにならないことを願い、さらに沈没の原因とその後の処置について書き、最後に明治天皇に対して部下の遺族の生活が困窮しないように懇願する内容でした。刻々と薄れる意識の中、死を直前に取り乱さないばかりか、後世のために遺書を記していたことは驚きでした。
 国内のみならず欧米各国においても、この事件について新聞や雑誌が大きく取り上げました。イギリスの新聞『グローブ』紙は「この事件で分かることは、日本人は体力上勇敢であるばかりか道徳上、精神上にもまた勇敢であることを証明している。今にも昔にもこのようなことは世界に例がない。」と驚嘆の記事を書きました。また、各国の駐日武官達は、詳細な報告を本国に伝えるとともに、海軍省を訪れて弔意を表明しました。各国の対応は通常の外交儀礼をはるかに超えたと言えるものでした。
佐久間艇長の遺書  
「小官の不注意により陛下の艇を沈め部下を殺す、誠に申し訳なし、されど艇員一同、死に至るまで皆よくその職を守り沈着に事をしょせり 我れ等は国家のため職に倒れ死すといえども ただただ遺憾とする所は 天下の士はこれの誤りもって 将来潜水艇の発展に打撃をあたうるに至らざるやを 憂うるにあり、願わくば 諸君益々勉励もって この誤解なく 将来潜水艇の発展研究に 全力を尽くされん事を さすれば我等一つも遺憾とするところなし、・・・」
続けて沈没の原因・沈据後の状況を説明した後、最後に、部下に対する思いと、遺族の生活が困らないよう懇願していました。
 当時は軍人殉職者遺族への補償規定はなかったので、佐久間艇長は部下の遺族が路頭に迷うのが何よりも気がかりだったのです。
この事故をお聞きになった明治天皇は、遺族にお見舞い金を届けるという特別の計らいをとられました。また、海軍省と朝日新聞によって義援金の募集が行われ、現在の価格では億単位になる五万六千円のお金が全国から寄せられました。このようにして佐久間艇長の遺書に日本国民が感動し応えたのです。
己(おのれ)を行(おこな)うに恥(は )じ有り、四方に使いして、君命(くんめい)を辱(は )ずかしめざる、士( )と謂(い )うべし。
この佐久間艇長の行動こそが孔子さまがおっしゃるところの、「士」ではないかと思います。
瀬戸塾新聞第27号掲載記事

 

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