第十二回 論語勉強会
(原文) 子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎、 子曰、其恕乎、己所不欲、勿施於人也、 |
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(書き下し文) 子(し)貢(こう)問うて曰(いは)く、一言(ひとこと)にして 以(も)って身を終るまで之(これ)を行(おこな)う可(べ)き者 有(あ)り乎(か)。 子(し)曰(いは)く、其れ(そ)恕(じょ)か。 己(おのれ)の欲(ほっ)せざる所(ところ)を、 人に施(ほどこ)すこと勿かれ。 (衛霊公二四) *恕(じょ)・・・思いやり |
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(訳) 子貢がたずねました。「人間として一生貫き通すために大切なことを一つの言葉で表す言葉がありますか」孔子さまがおっしゃいました「それは『恕』である。恕とは人に対しての思いやりの心であり、自分が人からされたくないことは、他人に対して決して行ってはならない」 |
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(解説) 人は生きている以上、必ず周りの人に助けられたり助けたり、迷惑を掛けたり掛けられたりしながら生活しています。 大袈裟に言えば私達が生きること自体が周りの犠牲によって成り立っているのです。周りの者に迷惑を掛けずに生きることはまずあり得ないのです。人の手助け無くしては生きていけないのが人間ですが、そういった人との接触によって人間は磨かれ成長していくのです。もし人間が集団生活を営まない動物であったなら、未だに他の野生動物と何ら変わりない生き方をしていると思われます。 先ず、私達は他者に迷惑をかけることによってしか生きることが出来ない存在で有るということを自覚しなければいけません。自覚することで、自分は他者によって活かされていると言うことに気付き、他者への感謝の念が生まれてきます。そう感じる事によって、他者に対して不愉快な思いをさせてはならないといった思いが湧いてくるのです。その思いが「恕」です。他の者に対して気遣い、不愉快な気持にさせない、そういった心配りがとても大切である。と孔子は説いているのです。そのような心配りが出来たならば、昨今問題になっているイジメ問題なども減少するのではないかと思います。 「己の欲せざる所を、人に施すこと勿かれ」人それぞれ、物事に対しての考えかた、受け取りかたが違うので、自分が良い事だと思って行った行為であっても誤解を招く事があり、なかなか難しい事だとは思いますが、少なくとも自分がやられて嫌な事は人にはしない、という心掛けはしなければいけないと思います。私は特に「我」が強い方なので知らず知らずのうちに多くの人の心を今まで随分傷つけてきたのでは、と反省させられる一言です。 「恕」すなわち他人を思いやる心、それが形となったのが礼儀作法です。道場訓の「礼儀を重んずる事」の項をもう一度読み返して頂ければよく解ると思います。 「己の欲せざる所を、人に施すこと勿かれ。」は顔淵の項の2番目にもこの言葉が出てきます。いかに孔子がこの言葉に重きを置いていたかを伺う事が出来ます。 キリストは「この愛するところを人に施せ」と説いています。新渡戸先生も他の多くの著者も「己の欲せざる所を、人に施すこと勿かれ」この二つの言葉を同じ意味だと紹介しています。しかし私はこの二つは似て非なるものであり、まるで別ものと考えます。これは東洋文化と西洋文化の考え方の違いを実に端的に表している言葉だと思うのです。 「この愛するところを人に施せ」という言葉は、自分が良いと思った事やして欲しいと思ったことは積極的に人にもしてあげましょうという意味です。ところが「己の欲せざる所を、人に施すこと勿かれ」は、自分が求めないことやして欲しくないことは他人にするのは止めましょう。と言っています。この二つには決定的な違いがあります。以前「無知の善人」の話しをした事がありますが、皆さんは覚えていますか?前者はある意味で、無知の善行の押しつけにもつながりかねません。 イラク戦争を考えてみてください。もちろん、イラク戦争の影には石油利権争いの問題があるのは間違いありません。しかしアメリカは絶対に自分達の自由主義、民主主義が正しいと思っています。絶対に正しいのであればイラクの国民にもそれを導入してやるべきだと思って始めたのがイラク戦争です。ところがイラク国民にとってそれは大きな迷惑だったのです。民族間の対立が激しい国では力による締め付けがなければ統制がとれないのです。そのような国では民主主義という形はなかなか根付かないと言う事をアメリカは考えもしなかったのです。 自分がして欲しいと思った事は絶対に他人も喜ぶはずだ、と思い込み押しつけられる事ほど迷惑な話はありません。 しかし後者の「己の欲せざる所を、人に施すこと勿かれ」は他人には何も押しつけていません。自分がして欲しくない事は他人にもするのは止めましょう。これは他人に対して何の影響も与えていません。そこにあるのは他人に対しての思いやりだけです。これはすごく奥ゆかしい心使いです。 「恕」すなわち他人を思いやる心、それが形となったのが礼儀作法です。つまり礼儀とは相手を尊敬する気持が姿、形となって表にあらわれたものです。 学校の道徳授業で一番始めに何を教えるべきか?といった議論の時、学校の先生、地域の人,PTA保護者は必ず「大きな声で挨拶する事を先ず教えるべき」という意見を出します。礼儀と挨拶はよく混同して考えられがちですが、礼儀と挨拶とは別物です。礼儀には相手を思いやる心がなければいけません。挨拶の出来る子を育てると言いますが、例えば愛嬌よく「コンニチワ」と言えてもそこに心が伴っていなければ、「こう言えば大人が喜ぶ」といった要領の良い子を育てているに過ぎないのです。これでは「巧言令色鮮し仁」です。言葉巧みな人間ほど本当は信頼出来ない、詐欺師などはその代表です。 「礼」の基本は、相手の立場を自分自身に置き換えて相手を思いやる感覚、痛みを分かち合う精神。この精神を孔子は「恕」と言う言葉で表したのです。 「礼儀」に関しては道場訓講義の「礼儀を重んずる事」の項をもう一度読み返して頂ければよく解ると思います。 |
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