第0回 論語勉強会
~「論語とは」「孔子の生涯」「徳とは」~
私は空手で手足を動かし汗をかくだけでは修行の目的である所の「人格の形成」は難しと考えています。そこで、せめて月に一度でも子供達と勉強会を持ちたいと思い昨年来より地域の子供達が共に学び合う場所として目黒区立第七中学校の教室を使わせて頂けないかと提案していましたところ、この度第七中学の校長先生の御協力により実現の運びとなりました。 学習は月に一回、第三日曜日午前十時から十一時半の一時間半、参加費無料です。 第一回の勉強会は四月十七日に七中の図書館で行いました。参加した子供は二十一名、子供達の勉強の講師として私と一般の部で空手を学ぶ者四名が担当しました。(空手の指導員、教育学部の学生、塾の講師など様々なメンバー) 日頃空手の練習の時には走り回ってなかなか言う事を聞いてくれない子供達が指定された場所に座り、勉強道具を出し静かに勉強し出したのには驚きました。今回参加したのは空手を習いに来ている子供達だけでしたが、ゆくゆくは地域の一般の子供達にも対象を広げて行きたいと思っています。 勉強方法は、初めの一時間は子供達が学校で習っている教科書や問題集を持ち寄り勉強し、解らない所を上級生が下級生に教える。それを我々がサポートするといった形式で行いました。残り三十分は子供達に孔子と論語についての話をした後、論語を素読、暗誦させ、暗誦出来た者からその文章を書き写して解散しました。一時間半という長い時間子供達の集中力がもつのかと危惧しましたが、あっという間の一時間半もっと長くても良かったのではと思う位みんな一生懸命でした。 教材に論語を選んだ理由の一つは、論語が人の生きる道、徳を説いているという事が有ります。しかしそれよりもっと大きな理由は、論語は文章というよりも文の一つ一つが短く完結で詩のような響きがあり、声に出して唱えると何か奥の深い知的な世界に誘い込まれるような気分になっていくからです。 論語に触れ、声を出し素読する事により、論語の持つ言葉の強さ、エネルギー、リズム、響きなどを感じ取り、その文の持つ情感が伝わって来ます。 そして声を出して読んでいくうちに、心躍り、高尚な人間になったような気分になり学問に対して興味が湧いてくるのです。 (これは論語に限らず数百年の歴史に耐え尚生き続けている古典にはすべて共通して言えることです。) 「論語」という書物の名は、たとえ読んだ事が無くてもほとんどの人が聞いた事があると思います。「三国志」「水滸伝」「孫子」「韓非子」等日本で多く読まれている中国の有名な本は沢山ありますが知名度に於いていずれも「論語」には及ばないと思います。 それは明治年間まで日本人の必読書であり、最も広く読まれた中国の書物であった事に起因すると思います。 論語は中国から日本にもたらされた最も古い書物です。古事記に当時朝鮮半島にあった国百済から、二冊の書物が朝廷に献上されたと書かれています。一冊は「千字文」でもう一冊が「論語」です。 奈良、平安朝時代ごろまでは、孔子が弟子達の教科書として使っていた「五経」易経、書経、詩経、礼記、春秋を勉強する事が第一とされていて「論語」は副読本だとされていました。しかし、江戸時代、徳川家康が「朱子学」【注一】を官学と定めた為に、幕府の大学である「昌平坂(しょうへいこう)」学問所を初めとし、水戸の「弘道館」、熊本の「時習館」、山口長州や宇和島伊達の「明倫館」など各藩の学問所もいずれも朱子学が中心とされました。ですから当時の侍や知識人のほとんどの人は論語を暗誦していました。 こうした藩校に限らず、私塾や寺子屋でも論語は教科の一つに取り上げられていた為、当時のほとんどの国民は論語の全ては知らなくとも幾つかの章は暗誦していました。そういった訳で江戸時代に論語は日本の国の隅々まで普及しました。 論語ほど日本人の思想形成に大きな影響を与えた書物は他には有りません。 【注一】 朱子学・・・朱熹(しゅき)一一三〇~一二〇〇(源頼朝とほぼ同年代)従来の儒学(孔子に始まる中国古来の政治、道徳の学問)が説くところの「正しい人間としてのあり方」に全宇宙、万物の原理を加え、仏教や道教に比べ儒学の弱点だった理論性を加えた。宇宙のあらゆる物事には、正しい姿、正しい関係と言うものがある。その正しい関係を「理」と言い、理に逆らうことは出来ない。そして「理」は人間関係においては「仁」と言う。ことを説いた。 |
論語とは |
「論語」は訳二千五百年前の思想家、孔子の言葉を死後、弟子達が編纂した言語録です。 言うまでもなく聖書と共に今迄に世界で一番読まれてきた書物の一つです。 孔子は紀元前五五一~四七九年、中国の春秋(前七七〇~四四〇)時代の末期に生きた人です。奇しくも世界の人類文化の源とされる偉人ブッダ(釈迦)、孔子、ソクラテスがほぼ同時代に出現しているということは非常に興味のある出来事です。 インドでブッダ(お釈迦様)が孔子の生まれる十二、三年前に、ギリシャでソクラテス【注二】が孔子の晩年、前四七〇年に生まれています。 この三名、釈迦、孔子、ソクラテスを世界の三大聖人と呼んでいます。この三大聖人にキリストを加えて「四聖」と呼びます。彼たちが生きていた紀元前五、六世紀、中国では千八百位有った封建国家が春秋時代の末期には十二~十五の代表的な国に統一され、これらの諸国が富国強兵を競い、戦乱、陰謀に明け暮れた時代です。民衆は打ち続く戦乱と略奪に疲弊し、秩序は崩壊し人々の心はすさみ、道徳は荒廃し果てていました。そういう時代に孔子は生まれました。 【注二】 ソクラテス・・ヨーロッパ文明の源となるのがギリシャであり、そのギリシャ文化の中で後世に最も大きな影響を与えた人物です。 「無知の知」ソクラテスはギリシャ中の賢人を訪ね歩き「勇気とは何か」「美とは何か」「正義とは何か」「死とは、生とは、幸福とは」等を問うたが、誰一人として正確に答える事が出来きませんでした。これらの問いに関してソクラテス自身は自分も答える事が出来ないことに気付き、そのことに気付かず自分は「賢者」だと思っている人に比べ自分は「無知の知」という点で勝っていると考えました。 「無知である自分に気付いた時、安易に自己満足に陥る事なく、真の知に近付こうとする努力が始まる。こうして人は単なる生き物ではなく、より良く生きるのである。」とソクラテスは述べています。 |
孔子の生涯 |
三歳で父親を亡くし、また幼くして母親をも亡くし、少年時代を辛苦の内に送り、倉庫の管理や家畜の管理人をやって一家を支えました。十五歳で学問を志し、老子を始め賢人がいると聞けば訪ねて行き、至る所で人々に教えを乞い自分を磨きました。 孔子は、「政治は道徳によって修められなければならない。」を理想としました。五十歳の時、魯の国に用いられ斉の国との外交会議に起用され、多いに斉の陰謀侵略をくい止め、魯の権力を保ちましたが五十六歳の時、魯の三桓(さんかん)が斉から贈られた舞楽(女楽)に熱中するのをいさめたが聞き入られず魯を去らねばならなくなり、その後十四年間弟子達を連れて衛、曹、宋、陳などの諸国を訪れ、自分の政治思想を説いて回ったが受け入れてもらえませんでした。 六十九歳の時再び魯に帰り、学校を開き、人材育成に勉め、七十三歳で生涯を終えました。孔子の教育思想、政治思想は死後、日本、東南アジア、ヨーロッパなど世界に広まり、世界の思想文明に大きな影響を与えました。 論語は二十篇約五百章から構成されています。各篇とも相互には関連性が無く短い章句が並べられており、篇全体を通しての統一テーマもありません。 孔子の思想が最も重きを置いたのは「仁」と「礼」です。この「仁」と「礼」の上に立って全ての話が展開されていると言っても過言ではありません。 孔子は、人はすべからく「徳」を身に付けなければいけない、特に上に立つ者は徳を持って政治を行わなければ国は治まらないと説いています。 |
徳とは何か |
徳とは道理にかなう立派な行いの事を言います。そして徳はいくつかの要素から成り立っています。その要素とは仁、義、礼、智、信の五常が中心となっています。 仁・・・慈悲、思いやり 義・・・正義、人間としての正しい筋道 礼・・・礼儀、他人に対して敬意を示す 智・・・知性、洞察力、物事を考え判断する働き 信・・・信用、嘘をつかない、約束を守る そのほかに 忠・・・自分の心に忠実であれ 孝・・・親や目上の人に尽くす 謙・・・謙虚で慎ましく、控えめがよい 等沢山の教えがありますが、要約すればやはり五常が基本ではないかと思います。(五常に関しては道場訓講話集の中にも書いていますので読んで下さい) 五常を身に付けるにはまず「学ぶ」事から始まる。学問の喜び、学ぶ事の楽しさを知る事が大切であると考え論語の第1篇「学而」の最初に学びに付いて書いています。 |
瀬戸塾新聞21号掲載記事(2005,5) |