〜自由についての考察〜

真の自由とは

瀬戸塾師範 瀬戸謙介

 先日、テレビ番組を見ていて驚いたことがあります。ある番組での街頭でのアンケートの結果として発表された内容です。女の子達に「あなたは万引きするのと援助交際とどちらが悪いと思いますか?」の問いに対してほとんどの女の子達が「万引き」と答え、その理由として「万引きは店に迷惑をかけているが、援助交際は誰にも迷惑をかけていないから」と言った答えが返ってきていました。また、中学、高校などで服装の乱れなどを先生が注意すると「なんで悪いのだれにも迷惑をかけていないし、私の自由でしょ」と言って平気な顔をして直そうとしないそうです。こう主張すれば一見他人に迷惑をかけていないように見えますが、実はそうではありません。この主張が非常に世の中を乱し多くの人に迷惑をかけていることに気がついていない以上に、本当の自由とは何かが解らず、自分を粗末に扱い傷つけていることに気がついていないことが最大の原因だと思います。
 自由とは身勝手な行動をして後は野となれ山となれではなく、自由というものは、決断した行動に対して責任を負うということだと思います。この決断を下すと言うのが自由の第一歩なのです。自分は右にも左にも行ける、だけど左に行く、それに対して責任を持つ、そういった決断が出来るのが自由なのです。そういった正しい判断が出来るようになるために、人は人間としてのいきる基本を学ばなければならないと思います。
 空手にも自由組手と言うものがあります。初心者が自由組手をやりたがるからと言って、基本をおろそかにして自由組手ばかりやらせていたのでは将来伸び悩みます。自由組み手ばかりやっていたのでは底力がつかないからです。練習をしていると必ず壁にぶつかります、そのとき基本をしっかりとやっている者は、地味な努力の尊さを学んでいる分、その壁を乗り越え次なる世界へと入っていくことが出来ますが、基本をおろそかにしている者は必ずと言っていい程そこでつまづき立ち直ることが出来ません。
 自由奔放に振る舞うと言うことは人間としての基本がしっかりと出来た上に成り立つことです。
  空手を学ぶときにも、基本の動き、型を徹底的に教わりますが、これは日本の伝統文化の伝承法の特徴です。まず窮屈な型に人間をはめ込み、この道の基本とは何かを徹底的に教え込みます。そこには自我と言う者が入り込むことは許されません。ものの基本を身につけるには自分勝手では身に付きません、まず自我を捨てることから始まります。一見この論理は人間の自由を認めていないかのように見えますが、そうでは無いのです。実生活においても自分の自我を通すのではなく、自我を捨てて真実、真理に従おうと言うところに人間の本当の自由があるのだと思います。自我、私欲、体裁などから自己を解放して人間としての基本(人間とはどうあるべきか)を思い出し、それに従おうとする気持ち、これが人間を成長させる近道であり、そして自我を自己から解放するときに初めてそこに自由と言うものが生まれてくるのです。そういったものを修得さすもの、出来るものが武道だと思います。
 武道を学ぶには我が儘勝手では身に付きません。我が儘勝手を捨て、基本から徹底的に人間をいったん型にはめ込むことから始めます。肉体を酷使し基本を徹底的に身につけさすことです。基本がしっかりと身につけば自由奔放に動いても全ての動きが理にかなっているから乱れないのです。そこに本当の自由の世界が見えてくるのです。武道で言うところの自由な世界とは、悟り「空(無)」の世界のことです。この「空(無)」とは、幼い子供の無心とか無邪気と言うようなものではなく、様々なことを学び、試み、工夫と失敗を繰り返し、厳しい修行の末に到達した心技体円熟の境地を指しています。つまり全てを知り尽くした後の「空(無)」でなくてはなりません。
 では、なぜ武道を学ぶことが「空(無)」の境地になることが出来るのか。それは武道とは殺し合いの技術である武術に哲学が加わり生まれてきたものだからです。武術とは元々闘争の技術であり、自分の生死を決する戦場において用いる技のことです。それは、誰もが生き残ることを望み相手を倒す。すなわち勝つことだけを願って生み出された技です。しかし人間同士の戦いにおいて永遠に絶対的勝利というものはありません。栄枯盛衰は世の習い、形あるものは必ず崩れる、生有るものは必ず死を迎えなければなりません。それをもっとも端的に表している場が戦場です。生と死といった相反し、決して交わることの出来ない世界、それでいて背を向けて逃げ出すことの出来ない世界の中で苦しみ、悩み、自分を見つめ、そして心が生死を超越したとき初めてその壁をうち破り、心が自由に解き放たれた域に達したとき、武士は自分の真に生きる世界「道」を見いだしたのです。これが「武士道」です。それは「死にきる」と言うことです。自我を捨て、私利私欲を捨て、自分にまつわる俗物を全て切り捨て「本道」に従う。そう言った世界に到達したとき人は初めて本当の「生きる道」が見えてくるのだと武士道は教えてくれているのです。
それは仏教で言うところの「悟り」「無」の世界と同次元ぐらい高いものであり、キリストの「愛」の世界、仏教の言うところの「慈悲」の世界と同一の世界です。
 自我から自己を解放するところに本当の自由が有ります、その自我の捨てきる方法を武道は教えてくれるのです。自分を捨てきった時初めて自分の生きる道が見えてくるのです。 
空手の修行は人生の修行の縮図の様です。皆さんもただ突き蹴りの技を磨くに留まらず、空手を通して心も磨いて頂きたいし、瀬戸塾がその様な研鑚の場になる事を心から願っております。そして、空手を学ぶ事で本当の自由を追求する青少年が少しでも増えてくれる事を望んでおります。
瀬戸塾新聞8号掲載記事(1998,12)

 

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