〜みんなで考えよう 道徳と武士道 Part1〜

道徳と武士道
「武士道」の勉強会をするに当たって、ある若者に「今度、武士道の勉強会を始めるけれど参加しないか」と誘ったところ「武士って悪い人でしょう。なぜ悪い人のことを勉強するのですか」と言われ、私は一瞬何の事を言っているのか解らず、戸惑ってしまいました。
彼の言うには「水戸黄門を見ても解るように、テレビに出てくる侍は、代官をはじめとしみんな悪人だ」と言うのです。
 また、別の人に一回目の勉強会が終わった後、「武士道を勉強すれば空手が強くなるのかと思って参加したけれど、そうではないのですね。」ともいわれました。

 私と同じ年齢あるいはそれ以上の人達は親や周りの大人から、「熊谷直実」「那須与一」「西郷隆盛」「上杉鷹山」など武将の物語をしょっちゅう聞かされながら育ちました。損得抜きで正義のために戦った話、死に直面したときの生きざま、覚悟など。世界に民族多しと言えども、死を悟ったときに淡々と死を受け入れ、辞世の句を残す国民はいない。これら武士の生きざまを日本人として当然の如く学ぶ事で、武士道とは何かという事は自然と私達の身と心にしみ込んでいました。
ですから、この二人の若者の反応には少し面食らいました。

 そう言えば最近のテレビ時代劇に出てくる武士は悪代官か、あるいは大河ドラマのように"丁髷(ちょんまげ)"を結ったメロドラマしか目にすることが出来ない現状では仕方がない事なのかも知れません。

 

現代の道徳教育について
  先日、中学校で道徳の公開授業が有り、覗いてきました。
その中学校での授業の主眼は「思いやりと優しさ」でした。どのような言葉使いが相手の心を傷つけないかを主題にした、生徒と先生とのやり取りでした。 確かに相手に対し思いやりと優しさを持つということは、人間として生きる上での基本ですし大切なことだと思います。空手に関しても、相手に対して思いやりと優しさの無い人間は習う資格が無いと私は思っています。心の根底に優しさのない人間に空手を教えると言うことは、ただ単に乱暴者を作ることに他ならないからです。
 しかし「思いやりと優しさ」それだけでは人間として不十分だと思います。
「思いやりや優しさ」だけでは時に意志の弱さへとつながります。優しさだけでは人間としての「徳目」が備わったとは言えないのです。それを行使するだけの意志の強さが必要です。そこが今の学校教育における道徳に不足しているところではないでしょうか。

 

道徳教育とは
 私は、道徳教育とは正邪善悪の区別をきちんと教え込み、そして自分はどのように生きることが正しい道なのかを考えさせ、悪に対しては毅然と立ち向かっていく勇気を教えることだと思います。悪い事に関しては「これはしてはいけない」と自分で感じる良心の掟をきちんと植え付けることなのです。論語に「ただ仁者のみ、良く人を好み、良く人を憎む。」と書いてあるように、良いこと、悪いことの区別をはっきり付け、その意志をきちんと表明できるようでなければいけません。

 我々は何を基準として正邪善悪の区別をすれば良いのかと言えば、その規準は、日本人の永い歴史、慣習、伝統の中から生まれてきたもの以外には有りません。道徳はその国の歴史観を無視しては成り立たないのです。
 
 それぞれの国にはそれぞれその文化、歴史、自然環境などがあり、おのずと物事に対する価値観が違ってきます。ですから当然それぞれの国にはそれぞれの国にあったルールが出来上がってきます。昔から「郷に入らば、郷に従え」と言った言葉があるように自国の常識を他の国に行ったときには押しつけてはいけないのです。日本国では日本の歴史、慣習、伝統から学び道徳観を身に付ける以外に無いのです。

 

道徳観を身に付けるには
 道徳の基本はまず自分の国に誇りを持つことです。自分の国に誇りが持てなくては道徳は無くなってしまいす。なぜなら道徳の基礎は、歴史、慣習、伝統の中にのみ見いだすことが出来るからです。その自国の歴史を否定した中からは道徳心は生まれません
 私は2年ほど前に、目黒区の中学校教科書選定委員として、教科書の選定に携わりました。その時感じ、教育委員会に提出した内容の一部を紹介します。
 『我が国において、教育の目的は立派な日本人、世界に通用する見識を持った日本人を育てることだと思います。決して立派なアメリカ人、立派な中国人、ましてや立派な国籍不明人を育てるのが目的では無いと思います。しっかりと、日本の文化を引き継ぎ、見識と良識の有る人間を育てることが教育の目的です。 しかし教科書を読んでいて、日本という国にはこんなにも素晴らしい世界に誇れる伝統と文化が有り、日本に生まれてきて良かったとか、日本と言う国を慈しみ大事にしようと言った内容はほとんどありません。むしろ日本はこんなに悪い国なのだ、外国に対してこんなにも悪いことをしてきたのだ。だから日本人は常にざんげ懺悔と反省をしなければならない。と言った内容が目立つように見受けられます。この様な内容の教育を受けてきた子供達がどうして自分の生まれてきた国を好きになれるのでしょうか。生まれてきた国が尊敬できればこそ、その国の国民であるということに誇りを持ち根を張ろうと思うのではないでしょうか。』学校教育の現場で「優しさ」を教える事も大切ですが、人間として誇りを持つことの大切さをきちんと教育してほしく思います。

 民族の歴史から生まれてきた「伝統の精神」としての良識が無くなっていくとまず道徳が乱れ出します。すると次に、法律の網の目をかいくぐる人間が増えてきます。そして目先の利益だけに翻弄され自分の利益のためならば他人のことなど顧みない人が増え、刹那的、退廃的になって社会が廃退してきます。残念ながら今の日本の至る所で起きている事件と相通ずるものを感じます。

 


道徳の役目
 道徳とは、自由奔放わがまま勝手放題の人間の心に対しての制御機能のことです。言い変えれば、動物としての「人」を人間としてあるべき姿に育てるための土台であり、枠作りです。

 今日参加者の多くの方は、空手を学んでいるのでよくお解りかとは思いますが、空手を習いに来た初心者に、何も教えずに勝手にやれと言っても何が何だか解らず戸惑うだけです。空手とはどのようなものであるかを説明し、基本からしっかりと教えていかなければ空手が上達していきません。

 人生もそうだと思います。人間としての基本をしっかりと教育を受けた人間とそうでない人とでは人格的に歴然と差が付くのは当然なことだと思います。抑制機能とはすなわち「自律心」のことです。「自律心」とは「人間とはこうあるべきだ」と言う理想を持って自分の心を律して生きる強い「意志」のことです。今の子供達は、この感情を抑制することを徹底的に学んでいないために、すぐにむかついたり、切れたりするのだと思います。

 

武士道の誤解
 

武士というと何だか威張っている存在のように思われがちですが実際はそうでのなかったのです。「無礼打ち」と言う言葉を聞いたことがあると思います。無礼打ちとは無礼を働いた百姓、町人を何時でも斬り殺しても良いという武士に与えられた特権で、武士はその様な横暴を働いて威張っていたと多くの人は理解しているようですが、実際江戸300年の歴史の中で、少なくとも江戸市中では無礼打ちがあったという記録はありません。下手にその様な手を下すと自分の藩に迷惑がかかるので、たとえ町人達にからかわれてもぐっと我慢する武士が多かったのです。
 一心太助が路上に座り込み「さあ、すっぱりと切ってもらおうじゃねえか」等と啖呵を切っている場面は有名ですが、これを見てもお解りのように武士が刀を抜かないことを見越しての開き直りなのです。だからこそ武士は普段から己を鍛え威厳を持ち、刀を抜かなくても相手が襟を正すだけの風格を持つことが大切とされました。つまり、武士道とは悪党の理論でもなくまた、武術が強くなるためのものでもなく、人間の生きざまを説いたものなのです。
 そしてその「武士道」の基となる考え方はもともとは武士のために考え出されたものではなく、千数百年と言う長い年月をかけ、人間の生きる道とはこうであるべきだと考え、親から子へと伝えてきた日本国民全体で作り上げてきた倫理観なのです。だからこそ、誰もが何の抵抗もなく武士道の行動原理を素晴らしい事と考え親から子へと伝えてきたのです。
 外国の道徳規準は、ほとんどが宗教を基本としています。宗教は、必ず一人の開祖がおり、その人の考えが絶対であり他の考えは受け付けないと言った排他的なところがあります。その為に多くの反発も起こり、世界で起こった多くの戦争は宗教が絡んでいます。しかし武士道には開祖が存在しません。千数百年と言う長い年月をかけ、日本国民全体で、考え行動してきたものです。ですから武士道を受け入れないと言った理由で戦争になったという話は聞いたことがありません。これが日本の道徳の基盤であるところの武士道です。

 

江戸時代における武士道の普及
  江戸の幕末には全国に寺子屋は2万軒以上有ったとされています。江戸市中においては3千軒以上、各町内に最低2〜3軒は有ったことになります。就学率も1850年頃すでに80パーセントにも達していました。おそらく世界一の就学率だと思います。そこで教えている先生には武士も町人もいましたが、7対3ぐらいの割合で武士の方が多かった様です。従って武士道の精神も自然と庶民全般に普及していきました。

 

武士の子供には算術の授業がなかった
 寺子屋では侍の子供も町人の子供も一緒に学んでいました。当時世界中何処を探しても貴族と庶民とが一緒に学んでいる国はありません。そして、寺子屋での勉強は「読み、書き、そろばん」と言われますが、たしかに町人の子供には「そろばん」が有りましたが、武士の子供の授業科目からは意識的に「そろばん」ははずされていました。その理由は、『武士は司法、行政、立法、教育など政治的権力を握っている階級である。政治的権力を握っている者が「利」に走ると、欲望だけが渦巻き、世の中が乱れ、退廃し秩序有る社会が築くことが出来なくなる。』と考えたからです。
孔子も「利」に対して厳しく戒めています。
 子曰く「君子は義に悟り、小人は利に悟る」
   (君子という者は、すべての物事が人として正しい道に適合するかどうかを考えるが、小人は利益があるかどうかをまず考える)

 

武士の役目とは
  山鹿素行は、「山鹿語録」に武士の役目、武士とはどうあるべきかを端的に書き表しています。
 『武士とはなにかと言うことである。世の中には百姓のように耕して米穀を作る者がいなければならない。また、日用の器材を作り出して人間の生活を便利にする者もいなければならぬ。そして、物と物との交換をして有無相通ずる商売も必要だ。ここに農、工、商の身分が起こる理由がある。しかし、武士とはなんだ、それは耕しもしなければ、器物も作り出しもせぬ。もちろん商売にも携わらぬ。それがなくても世の中立派に成り立ってゆけるではないか。
 では、武士は不必要な存在かと言うと、そうではない。農、工、商の三民はその日の職業に追われて、とかく人の人たる所以の道を踏み外すことがある。人の人たる所以の道、即ち人倫が乱れたならば、この世の秩序は成り立たない。つまり動物の社会と変わらなくなる。そこで人倫を正しくして、これを世間に示し、いやしくもそれが乱れるようなことがあれば、それを正すものがなければならぬ。その任務に当たる為に生まれてきたのが武士だと言うのだ。
 こうした天職をさずけられているのだから、武士は、五常(仁、義、礼、智、信)を常とし、「その自覚を高めること。意志を明確にすること。徳を練り、才能を磨くこと。よく善悪を省み、威儀を正しくすること。常日頃の行いを慎むこと」と言う五つの項目を厳重に守らなければならない。それが武士の態度として現れるには、平素から志気を養っておくことであり、温情をふくんだ形容。威あって猛からざる身のこなし。義理をわきまえ、天命に安ずる気持。精錬、剛直、正直といった徳目がにじみ出るような人物でなければならぬ』
と説いています。
 武士は官吏であるとともに民の教師であり、その他裁判官、警察官等いわゆる今日の公務員の任務のすべてを任されていました。ですから庶民と同じ自由気ままな行動は許されなかったのです。だからこそ幼いときから「公の心」と言うものを徹底的に教育されたたき込まれたのです。
「侍は公のために生きる」この考えは多くの侍の師弟が厳しく仕込まれた精神でした。
 今の政治家や官僚を見ているとこの武士としての教育の素晴らしさが痛感させられます。

 

なぜ今の日本には武士道精神がなくなったのか
 大正、昭和の時代に入り、政府が間違った武士道精神を国策とし、上から権力によって国民に浸透させようとしたところから日本人の心は真の「武士道」から離れていきました。今日、武士道と聞いて戦前の軍国主義を思い出し反発する人もかなりいると思います。「忠君愛国」「国粋」「大和魂」等を軍部は武士道精神という言葉を利用して国民の心を惑わしました。特に利用されたのは「葉隠」であり、その文章の出だし「武士道とは死ぬことと見つけたり・・・・」の一節を取ってこれぞ「大和魂」と持ち上げました。しかし葉隠は決して死に急ぎを説いたものでなければ、血気の勇を説いている本でもありません。
この葉隠の本を最後まで読めば、死の哲学でもなければ人命軽視の哲学でもないと言うことがよく解ります。
 葉隠で言うところの「死」は私心の死であり、私欲の滅却です。何れに行くべきか自分の前に二つの途が別れた時は、生死、成功、利害などと言った私心、私欲、をなくす(殺す)事によって正しく進むべき道が見えてくる。誰も生きる方が好きなのは決まっている。いろいろと理由を付け好きな方向に生き残ろうとするであろう。だが、それがもし正義に外れて生き残ったのならば、たとえ事が成功したとしても腰抜けである。この堺が非常に難しい。どうしても成功の見込みが無いと解っている場合に、人はさまざまな理由を付け、自分の行動を正当化しようとする。正義を立てるために、成功の見込みが無いのにやらねばならないとしたら、果たして何人が身を捧げるだろうか?このような場合に身を投ずるものを、常識人は「狂」と呼ぶだろう。しかしそうではない。このような者こそ正しく正邪の判断が出来る者である。このような場合、躊躇無く正義の為に危険を犯しても突き進む。そういったことが出来る者が真の武士だと説いているのです。
武士道は決して死に急ぎの論理ではありません

水戸光圀も武士の生き方に対して次のように説いています
 「一命を軽んずるは士の職分なれば、さして珍しからざる事にて候。血気の勇は盗賊も之を致すものなり。侍の侍たる所以はその場所を退いて忠節になることもあり、その場所にて討ち死にして忠節に成る事もある。之を死すべき時に死し,生くべき時に生くと言うなり。」
つまり、正義、節義にかなっているかどうかの判断を的確にすることが大切だと説いたのです。それは「大儀の勇」と「匹夫の勇」の区別が大切であるという事です。

「義」の無い勇気による死は「犬死に」である
 勇気は義のために行なわれるものでなければならない。勇気とはその対象が常に正義を伴っていなければ、徳としては認められません。

論語 ・・・ 「勇ありて義なきは、乱を為す」
  勇気があってもそこに義がなければ世を乱すもととなる。だから真の勇者は死に値しないことの為に死んだり、やみくもに危険を冒すことなどしない。それは「犬死に」とか「蛮勇」として、さげすまれる対象だった。

 世の中、正義を実行するとなるとなかなか難しい。「長いものには巻かれろ」と言ったり、言い訳を使って誤魔化す。そこには正義を貫く勇気がないからです。だからこそ「正義を遂行するための精神的修養」として武道(空手)の鍛錬によって勇気と胆力を養うことが大切です。そしてこの武士道とは、道徳の基本となるものなのです。

伊達政宗の言葉
 「義に過ぐれば固くなる、仁に過ぐれば弱くなる、武士たる者「智」よっ て分別することが大切なり、片寄らぬよう心掛けることが肝要である」
つまり、勇のみで走らず、智だけで走らず、常に冷静なる判断が大切であると説いています。
 武士道は自然的に発生したもので上からの押し付けではありませんし武士だけのための道でもありません。日本人みんなが人間の生きる道はこうであるべきだと考えた道であり、日本人の心そのものです。

 武士道のすばらしさは、自分はどうあるべきか、を常に問うものであり決して貴方はこうしなければならないと、他に強要するものではないところです。

 今の世の中、武士道を見直しじっくりと考えてみる必要が有るのではと思いますが如何でしょうか。

第1回勉強会(02/2/21)

 

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