〜道場訓講義その1 「努力の精神を養ふ事」〜

瀬戸塾師範 瀬戸謙介


空手を始める動機、目的は人それぞれ違うと思います。私の場合は強い人間に成りたい、喧嘩で負けたくないと言った単純な想いからです。しかし、「日本空手協会」の空手は技、技術を通して、道場訓の精神を学び立派な人間に成ることが目的です。道場訓の趣旨、内容に関しては、すでに平成8年12月発行の瀬戸塾新聞に記載しました。その道場訓の内容を一つ一つ吟味していきたく思います。まず今回は「努力の精神を養ふこと」とはなにを説いているのかを考えてみたいと思います。

努力の精神を養うこと
船越義珍先生は「空手は湯の如く絶えず熱を与えざれば元の水に返る」とたゆまない努力の大切さを説かれました。
 
・努力とは
  世間では「努力しろ、努力することが大切だ。努力をすれば必ず報いられ、夢がかなう」 と言う人がいる反面、 努力なんてダサイ、もっとスマートに格好良く生きた方が良い。努力なんてしなくても人生すべてスムースに流れていればそれで良いじゃないか。あくせくと汗を流すなんて無駄だ。だいたい努力しろと押しつけるから人間が枠にはまり自由な発想が生まれなくなる。自由奔放、気の向くままにすることにより個性が生まれ個の確立がなされる。と主張する人もいます。
 しかし個性は努力する事により芽生えてくるのであって、努力をしない者に個性などは生まれません。身に付くとしたら「悪癖」と「ずる賢さ」ぐらいです。
 では、前者の「努力をすれば必ず報いられ、夢がかなう」と言った意見ですが、今までの人生を振り返ってみて、努力したこと全て願いがかなったでしょうか。大方の人は「努力しても夢なんてなかなかかなうものではない」と思っているのではないでしょうか。しかし良く考えてみてください、もし今までにかなわなかった願いがあるとしたらその夢の大きさに対して見合っただけの努力をしたのか。私は今まで多くの失敗をしてきました。その失敗の多くは不運ではなくやはりその目標に対しての執念と努力が足りなかった事が原因だったと思っています。
 
・努力していない者ほど努力したと強調する
 学生に「今回の試験どうだった」「だめでした」「勉強しなかったんだろう」と言うと普段勉強してなく今回はちょっとだけ勉強した子に限り、「イヤー今回はがんばりましたよ」と言う。
 大体において「努力をしている、努力をしている」と言う者に限ってさして努力していない事の方が多々あります。
 本当に努力をしている時には自分が努力をしているとは感じません。目標に向かって自然と気持ちも体も動き、ただただ無我夢中で苦労も苦労と感じずまっしぐらに突き進んでいきます。後で振り返ったときに「よくもあの時はあんな事が出来たものだなあ」と思うのです。自分で自分が努力していると思う時は、まだまだ努力が足りないときです。しかしスランプに落ち入ったり、気が萎えたときにはやはり自分で自分を励ますためにも努力と言った言葉を自分に投げかける必要があると思います。
 
・ハウツーものが流行る理由
 技術の発達とともに、今まで不可能だったことが簡単にこなせるように成りました。すると人々の思考も簡単、イージーに物事を修得出来るような錯覚におちいって、「覚えようとしなくても聞くだけで簡単にマスター出来る英語」とか「努力しなくても飲むだけでやせられるお茶」と言ったものが流行っています。
 しかし便利に楽になったのは道具や機械が今まで難しかったことをこなしてくれる様になったのであって、我々がグレードアップしたのではありません。自分の身に付ける技術や能力はやはり地道な努力の積み重ねをする以外にありません。
 
・人によって努力に対する考え方の基準が違う
 本人は必死にやっているつもりの事でも、他の人から見たとき準備運動程度にしか思わないことが多々有ります。
 オリンピック競技で負けた選手のインタビューで「満足しています、自分の全てを出し切りました」とうれしそうに語っている人は大体において目標は低く参加できただけで満足をしているか、あるいはこれを最後に引退を考えている人です。あのスケートの清水選手のように目標が高く、練習中体力の限界を通り越しているのではと思われるぐらい努力している人に限って「まだまだやり残した事がいっぱいあります」と答えます。
 
・努力してもなかなか願いは適えられない
 しかし、人にはそれぞれ「運、不運、巡り合わせ」等と言ったものがあり、なかなか努力をしても報いられないことの方が多いのは確かです。
 人生は一生懸命努力してもだいたい、90パーセント以上自分の思い通りには成らないのも確かです。
 
・努力しても無駄か
  ならば努力しても無駄かと言うとそうではない。努力をしなければ100パーセント願いはかなえられません。
 「棚からぼた餅」と言う言葉が有るようにごくまれに努力無しに運が転がり込んでくることもありますが、それはごくごくまれなことでありあまり当てにはすべきことではありません。願いと言うものは努力することによって初めてかなう可能性が出来てきますし、運も努力することにより自分の方に引き寄せることが出来ます。

 

・努力をする過程が大切
 しかしそれよりも大切なことは、努力をすることにより、その過程においていろいろなことを学び自分が向上する事です。自分が向上して行く喜びを知った時、人は願いは願いとして置き、それが成就しなくても気にならなくなります。

 

・努力する方向が間違っているととんでもない方向に向かっていく
  努力することは非常に大切なことですが、その方向性が間違っていると無駄な労力だったり、結果としてとんでもない方向に行ってしまうことがあります。
 努力をするためにはまず高い理想(日本空手協会では道場訓です)と夢を抱くことです。そしてその夢を実現させる為には今の自分の能力の限界よりもちょっと高いところに目標を置くことです。その目標をクリヤーした頃には必ず、次なる目標が湧いてくるはずです。一つ一つ目標がクリヤーして行くうちに自然と実力も着き、視野も広がり人間的な厚みが出来てきます。理想は出来るだけ高いところに掲げるのが良いですが、目標があまり高すぎると現実の自分とのギャップに押しつぶされ途中で挫折する事が多々あります。

 

・努力をすれば右肩上がりに実力は付くか
 初心者は教わること全てが珍しく乾いたスポンジのごとくどんどんと吸収し右肩上がりに成長していきますが、常に右肩上がりに実力が付いていくとは限りません。むしろ必ず壁と言うものがありいくら努力しても足踏み状態で一歩も前に進まないことが多々あります。こう成ったときにほとんどの人は熱が冷め止めてしまいます。しかし足踏みをしているように見えても決して足踏みをしているのではなく、次の段階にジャンプするためのエネルギーを蓄えているのです。ですから止めずに続けているとある日突然これまで努力し、蓄えてきた全ての回路がつながり今まで出来なかったことが出来、解らなかったことが理解できる様になります。そうすると今まで見えなかった別の世界が目の前にパーと広がってき、今まで鬱々としてきた気持ちが一気に晴れ渡ります。
 実力はほとんどの場合、右肩上がりではなく、階段状で延びていきます。
 
・努力をしない人ほど言い訳がが多い
努力をしない人ほど言い訳がが多いです。それは後ろめたい気持ちが有るから、努力しない自分を何とか正当化しようとして言い訳を言います。
 努力している人には不平、不満、妬みなどは有りません。有るがままの姿、これが自分だと言い切ることが出来るからです。努力は自信につながっていきます。なぜなら自分をさらけ出してもなにも怖い者がないからです。
・教育とは努力する喜びを教えること
指導、教育とは努力する喜びを教えることです。指導者は教わる者のレベル(気力、体力、能力)に応じた努力の喜びを教えてやることが大切です。努力することの喜びさえ身に付けば、人は欲が湧き自分で創意工夫をしチャレンジするようになります。
・人生において本当の喜び
人生において本当の喜びや楽しみは苦しみの中にこそ有ります。安易な喜びや楽しみはその場限りのもので心の奥深く染みこんだ喜びとは成りません。
享楽的な喜び、刹那的な楽しみはその場は楽しくても後で虚しさが残ります。 日頃努力していればこそ、気分転換としての楽しみも開放感に浸りほっとして喜びも増します。
 努力していない者が遊びほうけていても「無力感」だけが残り虚しくなります。
 人間の心の解放は努力の中にこそ有ります。そして人間の真の喜びは心が解放された時にあります。努力をしそれが報い入れられたときに真の喜びが有ります。
そして目的を達成するには「気合と覚悟」が必要です。この気合いと覚悟が今の我々には一番欠けているものではないでしょうか。
第4回勉強会(02/10/19)

 

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