~中山成彬(元)議員の舌禍事件2008.10~
瀬戸塾師範 瀬戸謙介 中山衆議院議員は三発連続失言問題でとうとう国土交通大臣を辞任することになった。 どのテレビ局のニュース番組も中山議員の発言に対して、「失言だ」「暴言だ」「議員としての資質が疑われる」などと徹底的に叩いている。コメンテータとして出ていたうつみ宮土理などは「人間として失格だ」と感情むき出しでわめいていた。 そこで、中山議員の失言といわれている内容を一つ一つここで検証したいと思う。 |
一、「成田空港整備の遅れは『ごね得』」 成田空港建設当時は、中核、革マル、社青同というような左翼組織セクト(分派)の連中が建設反対の先頭に立って騒いでいました。彼らの活動の目的は暴力によって社会不安を引き起こし、社会の混乱を招くことによって政府を転覆することであり、世の中を良くしようという建設的な考えはなんら持っていない組織なのです。彼等は一坪運動という一坪ずつ地主を登録することで債権者数を膨大な人数に増やして空港用地買収を困難にさせ、暴力によって空港建設を阻止しようとしてついには機動隊と衝突しました。 彼たちは潤沢な運動資金により日本全国から人を集め、長期に渡る反対運動を展開しました。その潤沢な資金は一節によると近隣某国から供与されていたとも言われています。中山成彬議員は過去のそういった経過を熟知しており、腹に据えかねてこの様な発言になったのだと思われます。 |
二、「日本は単一民族」 中山議員は、記者の「観光振興に関して、なぜ日本人は内向きなのか?」という質問に対して、「やはり島国の中で長い間、他国とのあまり交流がなかったという、まあ何というか、単一民族というか・・・」と言ったのであって、「日本は単一民族である」と断言した意味の発言ではありません。彼が「単一民族というか・・・」といった言葉は、同じ社会通念、モラル、生活習慣を共有し同じ言葉を使う同族であるという意味で使ったのだと思います。民族が違えばそれぞれの異なった風俗、習慣、道徳概念が有ります。この異なった価値観に民族間の摩擦が起きるのです。日本が中国や韓国、北朝鮮と上手く行かないのはまさにその点にあります。朝鮮民族はどちらかと言えば性格的にラテン系でカッカと熱しやすく、漢民族の五千年の歴史は権力闘争と虐殺の歴史であり非常にしたたかです。どちらも日本民族とは性格的にとても異なった民族です。その点、アイヌ民族と我々とはほとんど差違を見いだすことが出来ません。 中山議員はその後「同質的な民族と言いたかった。」と真意を述べているように、私たちは日常生活において、アイヌ民族に対して違和感を感じることなどありません。私たちと同じ日本民族、日本人と考えても私たちはなんら抵抗を感じないほど日常生活においての習慣、道徳感などが一体化しています。 この様なことが起きるたびに、人権問題でことさら騒ぐ「同和問題」を思い起こします。「同和」という言葉や概念が私たちの意識の中から無くなってしまうことが本当の意味での差別がなくなると言うことなのに、忘れ去られては困るから、何かにつけて難癖を付け騒ぐのです。それは、同和と騒ぐたびに大きな利権が転がり込んでくるからです。「同和問題」は「人種差別問題」ではなく実は「利権問題」なのです。ここで大切なのは、同和とは全く関係ない連中が利権に群がり騒いでいるということです。 「日本は単一民族のようなもので・・・」この言葉には、私たちは普段アイヌ民族を差別する意識すら無く、同じ日本人として一緒に暮らしていることの現れではないでしょうか。それとも、アイヌの人々は日本人としてではなく異国民としての差別を望んでいるのでしょうか。今回の事も「騒ぐことによる利権」の臭いを強く感じるのは私だけでしょうか。 |
三、「道徳教育を否定する日教組は解体すべき。小泉さんの言葉を借りれば『ぶっ壊す』です」 戦後の教育を悪くしたのは日教組だという事は、間違いない事実です。歴史学者「アーノルド・トゥインビー」は、古代ローマ帝国の興亡を徹底的に調査研究した結果「一つの民族、国が滅びるのは戦争によってではない。ましてや天変地異でもなければ経済破綻によってでもない。国民の「道徳」それが失われた時にこそその民族、国家は滅び去るのである。」と言っています。 チベット民族やクルド族が今でも大きな力と戦いながらも亡びないのは正に自分達の歴史と文化を大切にし、民族としての誇りを失わないからです。(道徳は、その民族の永い歴史、慣習、伝統の中から生まれてきたものです) 中国と言えば、北京以北の元満州国もずっとずっと昔から中国であったと何の疑いもなく思っている人が多くいると思います。しかし万里の長城が示しているように、中国の国境線は万里の長城だったのです。万里の長城より南は我が漢民族の領土であり、これより南を犯されたくないから延々と漢民族は万里の長城を築き上げてきたのです。万里の長城より北は満州族の領地でした。第二次大戦後、漢民族に飲み込まれた満州族は自分たちの伝統や文化を棄て漢民族に同化したが為に、この地球上に満州族はもはや跡形もなく消え去ったのです。 日教組は、個人の内面的な倫理意識に踏み込み、哲学に触れる「道徳教育」は教育の現場にはなじまないと言って道徳教育を否定してきました。中山議員が文部科学大臣の時、まさに戦った相手の中央教育審議会(文科省の部会)会長山崎正和氏は教育現場での道徳教育に関して日教組と考えを同じくし、堂々と道徳教育に反対意見をのべ、伝統文化に対しても「一般的に言われている日本の伝統文化とは「大和文化」であり、それは京都地方の一部に栄えた文化である。それを日本人全体に、日本の伝統文化であると押しつけことはおかしい。」と述べ、安倍元総理が在職中に提案した教育基本法の「伝統と文化を尊重しそれを育んできた我が国と郷土を愛する・・」という教育の目標に対しても「伝統文化を愛することと、現代の我が国を愛することを結びつけることは精神として非常に危険である。それは、時に大国主義、いわゆる排他主義につながっていく。」と反対し、更には「日本文化を誇るならばそれは近代以降の日本を誇るべきであり、伝統的な文化は他国の伝統的文化を尊重するのと同じ程度に考えればよいのである。」と言って歴史(国史)教育をも否定しています。そして山崎氏は学校での道徳教育は個人の尊厳を否定するものであると結論づけ、「学校教育で教える必要があるのは法を守ることだけだ。法に従うのは社会の約束であり、法は『取引の理論』つまり盗みを許せばあなたも盗まれるかもしれませんよといった『損得勘定』で成り立っており、教育現場では子供に教えるのに分かりやすい。『目には目を、歯には歯を』と取引から成り立っている法の方が論理的に説明しやすく、学校教育ではこれを教えれば充分であり、倫理を中心とした道徳教育は学校の教室にはなじまない」と結論付けています。こういう考え方の人間が日本の教育界の中心にいること自体驚きです。 法の遵守を教えるのは大切なことではありますが、道徳をおざなりにしたこのような教育は、法さえ守ればあとは何をしてもよいと言った間違った考えを芽生えさせます。「世の中は全て損得勘定で成り立っている」といった考えで日教組が子供達を導いてきたから、金こそ全て、金持ちこそが社会の成功者と言った考えになり、法の網目をかいくぐり悪事を働く人間が増えてきたのです。 日教組は旧社会党が朝鮮労働党との関係を深めた昭和四十年代後半から北朝鮮との「連帯」を強調し、たびたび訪朝団を派遣して北の指導者を賛美してきました。ミスター日教組の異名を持つ槙枝元文元日教組議長は議長在任中に、北朝鮮について「この国には泥棒がいない。泥棒とは富の片寄ったところに発生する。この国には泥棒の必要がないのである。泥棒も殺人犯もいないから警察官もいない。交通整理や怪我(けが)人のために社会安全員が街角や交差点に立っているだけ」(著書『チュチェの国 朝鮮を訪ねて』より) 槙枝氏の北朝鮮礼賛は大韓航空機爆破や拉致などの国家犯罪が発覚した後も続き、五年前の平成三年には北朝鮮から「親善勲章第一級」を授与された。今から僅か五年前の金正日総書記誕生六十年の祝賀メッセージで、金日成元主席について「わたしは訪朝して以降、『世界のなかで尊敬する人はだれですか』と聞かれると、真っ先にキムイルソン主席の名前をあげることにしています。」と強調し、日本を北朝鮮化しようと熱心に働きかけていました。この様な人物が日教組の長として長年君臨してきたことは皆さんの記憶に新しいことだと思います。 日本の伝統文化を否定し、学校で道徳教育を行わず、自虐的な歴史を教えることはまさに、アーノルド・トゥインビーが述べているように民族の破滅を招きます。すなわち日教組は、日本民族の滅亡を謀っているのです。日本民族のプライドをなくし、自滅することを喜ぶのはまさに中国と朝鮮です。日教組の目的は日本を左翼化し中国や朝鮮と同化することを望んで長年行動してきているといっても過言ではありません。日教組は正に教育の主眼を日本民族の滅亡においたのです。 中山議員に限らず、日本を愛する人なら日教組に腹を立てない人はいないと思います。 道徳を失った国は必ず滅びます。そもそも国の繁栄とは、如何にその国の精神文化を高めるかと言うことです。精神文化をおざなりにした民族は心の芯が無くなり滅びていく運命に有ります。伝統的な精神文化こそが日本の未来を創る力となるのです。 |
中山議員の失言とされている「成田空港整備の遅れは『ごね得』」と「日本は単一民族」の二つは言葉足らずの所があり多くの誤解を招いたかと思いますが、よくよくその事柄を吟味すれば理解できる内容ではないかと思います。今のマスコミはとにかく針の穴からでも欠点を探し出し、引きずり下ろすことが自分たちの使命と勘違いしているのではないでしょうか。 日教組の発言に対しては、「国土交通大臣が教育のことに関して言うのは分を弁えていない」といった意見が与野党を問わず噴出していますが、大臣として公の場での発言なら問題かも知れませんが、公の場でないところで何故持論を発言していけないのか私には解せません。持論を述べ賛同を得るように勉めることこそ政治家の勉めだと私は思います。 |