〜道場訓講義その3 「血気の勇を戒める事」〜

瀬戸塾師範 瀬戸謙介


血気とは、はやる心、感情の高ぶり、興奮、つまり「血気の勇」とは感情のおもむくままにまかせた粗暴な行為のことです。
 広辞苑には「血気の勇」のことを「血気にまかせた一時の勇気。猪勇」と説明しています。つまり「血気の勇を戒むる事」とは猪突猛進、むこう見ずに猛然と突き進む事、こういった行為を戒めているのです。

孔子は「論語」で
「暴虎馮河死して悔いなき者はわれ与(とも)にせざるなり」(訳:素手で虎に立ち向かっていたり、あるいは川の深さや流れの速さを確かめもせずに河を渡ったりして命を落としてもかまわないなどとと思うのは本当の勇気ではなく、ただ単に無鉄砲なだけであり、私はこの様な者とは一緒に行動をしない)と言っています。
 私の知人で、以前警察官だった者がいます。警察官だった当時、乱暴な運転をしていたトラックの運転手に尋問したところ運転手は彼にくってかかりさんざん悪態をつき「おまえはお巡りの制服を着ているから偉そうに出来るんだ、それを脱いで見ろ、おまえなんかただの木偶の坊じゃないか」と言われカットなった本人は「よーしそれなら今、警官を止めてやる」と言って制服を脱ぎ捨て運転手を引きずる出してぶん殴ってしまいました。もちろん彼はクビになってしまいました。彼は何時も酒を飲むとその事件の事を自慢話として話しをしていました。また周りの者も「あいつはなかなか男気があって面白い奴だ」とその事件の事を語っていました。喧嘩のはずみで辞表を出す。この行為を勇気と勘違いしている節が有るが決してそのような行為は勇気ではありません。
 この様な行為を「匹夫の勇」と言います。匹夫とは一匹二匹で数えるにしか値しないような人間という意味です。
 
死に値しない事の為に死ぬことを「犬死に」という
  水戸光圀は、次のような記述を残しています。
「戦場に掛け入りて討ち死にするはいとやすき業にて無下の者にてもなしえらるべし。一命を軽んずるは士の職分なれば、さして珍しからざる事にて候、血気の勇は盗賊も之を致すものなり。侍の侍たる所以は其の場所をしりぞいて引退忠節に成る事もあり、其の場にて討ち死にして忠節に成る事もある。これを生くべき時には生き死すべき時のみ死するを真の勇者というなり。」
つまり感情に左右されることなく状況判断が出来、適切な行動が出来る者それが本当の勇気だと言っています。
 真の勇者は死に値しない事の為に命を落としたり、やみくもに危険を冒したりしません。いかなる状況に置かれても義を尊び、冷静沈着に行動することが出来る者を真の勇者といいます。
 
また、勇について孔子は
「義を見てなさざるは勇なきなり」と言っています。
 つまり、勇の行動には必ず正義が伴っていなければいけないし、正義を前にして尻込みするようでは本当の勇者ではないと言っています。
 武士道では「五常の徳」のなかで特に「義」に最も重きを置きました。それは、この「義」の徳目が他の徳目に比べて行使するにあたり最も難しい徳目だからです。もし「義」(正義)が守られなければ世の中、不正がはびこり社会秩序が保てなくなります。ですから、武士道では徹底的に何が正しいのか「義の精神」を教え、彼らの行動の中に「義」があるかないかを常に問われていた。しかし「義」を遂行すると言う事は大変難しい事です。「正しい行い」「正義」を遂行するには「自分の利益、損得、打算」等をうち消さなければいけません。つまり、人間の行動エネルギーであるところの「欲望」を制御しなければ正義を遂行するのは難しいからです。
 人はだいたいにおいて自分にとって損か得かの判断で行動したり発言したりします。しかしその損得勘定が人を傷つけたり自分の心を卑しめたり、正義の道から外れていては人間として失格です。今の日本人に最も欠けているのがこの「正義感(勇気)」です。さわらぬ神に祟りなし、長い物には巻かれろといってその場をやり過ごす。これは勇気が無いからです。
 孔子の門弟に子路という者がおり、彼が孔子に
「君子は勇をたっとぶでしょうか」
と聞いたところ孔子は
「君子は義を以って上と為す。勇ありて義なきは乱を為す。小人勇ありて義なきは盗みを為す」と答えました。(訳:もちろん君子は勇気を大切に考えている。しかし勇気の根本には義がなければいけない。つまり正義が常に勇気を支配していなければいけない。勇気だけで義をおもんじない、そのような者が権力を得たならば世の中を乱し、小人(人格者でない者)で勇敢だが義が無い者は、乱暴狼藉を働くようになり最後は盗みまで働くようになる)
つまり勇気ある行動とは正義の為のものでなければいけません。正義の伴わない勇気、これは「匹夫(ひっぷ)の勇」として蔑まれます。
 しかし、義を貫くと言うことは口でいうほど生やさしい事ではありません。人はとかく自分にとって楽な方を選び、自分の行動に対して言い訳をし正当化しようとします。
 
今や、「武士道」といえば新渡戸稲造の武士道の方が有名になりましたが、以前は武士道といえば「葉隠」その中で下記の一節が有名でした。
 「武士道といふは、死ぬ事と見附けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片附くばかりなり。別に子細なし。胸すわって進むなり。図に当たらぬは、犬死になどという事は、上方風の打上りたる武士道なるべし。二つ二つの場にて、図に当たるようにするは及ばぬことなり。我人、生くる方が好きなり。多分好きな方に理が附くべし。若し図にはずれて生きたらば腰抜けなり。この境危うきなり。図にはずれて死にたらば、犬死に気違いなり。恥には成らず。これが武道には丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりている時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり。」
 この一節が戦後、『葉隠(武士道)』は人命軽視の封建的道徳で有り、若者を戦地に戦地に送り出すための思想統一の道具に使われたとしてさんざん叩かれました。しかしこの文章を最後まで読めば決して人命軽視の哲学ではなく、正義を貫くのはとても難しい。人間はどうしても損得勘定で自分の進む道を選ぶ。だから人は「私心、私欲の死」もって事に当たらなければ本当の正義は貫けない事を説いているのです。私心、私欲を捨て死を覚悟して事に当たれば、必ず正しい道を選ぶ事が出来ると説いているのです。そうする事によって、一生無事に仕事に励む事が出来る。と説いています。
 つまり、正義を貫くには私心、私欲を捨て公平に物事を判断すると言った事が要求されます。しかし、私心私欲つまり打算や損得勘定を抜きにして判断する、これは非常に難しい事です。人間は感情の動物であり、自分の欲望を満たそうとする行動こそが生命のエネルギー源でもあるからです。
 人間、生理的欲望(お腹がすいた、眠たい等)はそれが満たされた時点で満足をしそれ以上は求めませんが、精神的欲望、物資欲は満たされれば満たされるほどどんどんとエスカレートしていき際限が有りません。
 ましてや我々戦後の教育を受けた者は、豊かさと、便利さだけがすべての物差しの基準であるとしてきました。これは詰まるところ「損得勘定」です。どちらが損でどちらが得かの相対的な価値判断です。能率主義、生産主義、そして管理社会もその判断基準を基にした考えです。合理主義社会では数字では表すことの出来ない大切なものは評価されず、不合理なもの、無駄なものとしてすべて排除されてきました。目に見えない「精神文化」よりも「物質文明」に重きを置いてきました。このような損得勘定だけで育ってきた者にとっては正義を貫くと言ったようなことは「しょせん書生の戯言、青臭い理想、そんなものでは飯は食えん」等と言い軽蔑の対象でしかありません。

 
正義を貫くには
 世の中、正義を実行するとなるとなかなか難しいです。人は自分の都合のいいように物事を解釈し、色々と言い訳をいって誤魔化し自分を納得させます。
 正義を貫くためにまず大切な事は、自分を律する心「自律心」を養うことです。様々な欲望を抑え込み我慢することです。欲望を抑え込む強い意志を鍛えることにより初めて正義を遂行する事が出来るのです。
 堪え忍ぶ忍耐力を身に付けなければ本当の勇気というものは身に付きません。そのために人々はさまざまな「修行」を自分に課してきました。座禅、滝打たれ、武道、茶道等これら全てその道を極めようと思うととてもつらくて厳しいものです。そのつらくて厳しい事を自分に課し、目的を果たすまでやり通す。これら全ては自律心を養う訓練であり、自我を抑える鍛錬です。そういった「修行」を通して初めて正義を貫く強い意志と勇気が生まれてきます。
 だからこそ我々は正義を貫く為に空手の修行を行い、物理的な外圧をはね返すだけの技と体力を身に付け、自制心を養い、勇気と胆力を身に付ける事が大切なのです。
 
真の勇者とは
 勇気は人間にとって絶対必要な要素です。しかしただ勇気があれば良いかというとそうではありません。
 孔子も
「徳ある者必ず言あり。言ある者必ずしも徳あらず。仁者必ず勇あり。勇者必ずしも仁あらず」といっているようにやはりそこには人間としての徳を積まなければいけません。そして真の勇者は行動するにあたっては冷静沈着でなければいけません。勇気で最も大切な事は精神的な落ち着きであり、勇気は心が最も穏やかな時に発揮されねばいけません。
 本当に勇気ある人は常に落ち着いていて決して驚かされたりしません。何事によっても心の乱される事のない人を真の勇者という。
 現在の日本人がすぐにキレたりふてくされたりするのは、本当の勇気を身に付けるにはどうすれば良いのかを教えていないからです。真の勇者は常に冷静で感情の起伏がなく、驚くような事があっても平静を失うような事は決してありません。危険が迫り、死の恐怖が襲ってこようとも、自制心を保ち、的確な判断を下せる人。つまりいかなる状況に立たされても常に心に余裕をもって対処出来る人。この様な人をひとは「真の勇者」と呼びます。
 何事が起こっても平静でいられるのは常日頃の心掛けと修行によってしか得ることは出来ません。
 
孟子は「仁は人の心なり義は人の路なり」といっています。
  仁とは人が人として持たなければならない「良心」のことであり。義とは人が人として行わなければならない正しい道と言う事です。「仁」は根本であり、「義」はそこから生まれ出る行動原理の事。「仁」と「義」このどちらが欠けても人間としての正しい行動は生まれないと説いています。
 そして「悪人の敵(かたき)となりうる勇者でなければ善人の友とはなり得ぬ」といった言葉があるように悪人からは煙たい存在と成らなければ真の勇者とはいえません。
 皆さんも是非「悪に立ち向かっていく勇気」を養って欲しく思います。

 

第7回勉強会(03/6/21)

 

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