〜道場訓講義その5 「人格の完成に努むる事」 後編〜

瀬戸塾師範 瀬戸謙介

 前回、人の生きる心構えや信念が表に表れ人を感化する力を人格だと言うこと、そして、感化にも善に導く感化と悪への感化とがある。人格の完成を目指す者は、他の者に良き感動と感化を与えなければならない。その為には学問、読書の大切さ。武道によって肉体と精神を鍛え人間としての本質を磨くことの大切さ。人間の本質とは勉強が出来るとか運動神経がよいとか等ではなく「徳」が有るかどうかが人間の本質として最も大切である。人間「徳」さえ有れば自然とそういった才能は身に付いてくる。
 もともと人間は徳の有る人とない人とに分かれて生まれてきたのではない。
徳は、人それぞれの心の置き所によって決まる。向上したいと常に心に思っている人間と、その日が楽しければそれで良いと日々刹那的に過ごしている人間とでは自然と徳の差が生じる。そしてその徳が体の外ににじみ出て来たのが人格である。つまり、人格とはその人の人生に対する心構えが表ににじみ出てきたものである。と言った内容で話をしました。

人格の完成を目指すには
 人格の完成を目指すにはまず、高い「志」を持つことです。自分は是が非でも立派な人間になって社会の為に尽くしたいという「志」を持つことです。この心構えこそが一番大切です。「志」を抱くと抱かないとではおのずとその者の人生の生きる姿勢が違ってきます。

 お釈迦様は心を高め良き人格を高める方法として「六波羅蜜」という修行の道を説いています。その第一が「布施」・・人を助ける。人の為に尽くす。人様に思いやりをかける。「持戒」・・自分を戒め、自由奔放に振る舞わない。「忍辱(にんにく)」・・この世は無常であり波瀾万丈に富んでいる。さまざまな災難、苦難が人生には襲いかかってくる。それに耐え忍んでいくことが大切である。「精進」・・怠けず一生懸命目的に向かって努力しなさい。「禅定」・・時には座禅を組んで心を静め自分を見つめ直しなさい。「智慧」・・真理を明らかにし人生の指針となるような人格と深く結びつくような知識を身に付け、物事の真理を悟る。以上の事を心掛けて修行に励むことにより、より高い次元の人間となる事が出来る。と説いています。

王陽明は「立志」について
 「立志とは自己の生(自分の人生)を自覚的に方向付ける意思、努力のことである。それは必ず聖人(注1)を目標とするものでなければならない。君子の学問はいついかなるところでも志しを立てることを勤めとせざるをえない。身を終えるまで学問工夫は志しを立てることだけである。」と説いています。
つまり、人は常に人格を高める努力をすることが生きている証だと言っています。

(注1)聖人・・知、徳が最もすぐれ、万人が仰ぎ師表とすべき人。(孔子など)

 教育基本法の第一条にも「教育とは人格の完成を目指す・・・」と有ります。学校でさまざまな知識、知恵、技術、技などを教えるが、その真の目的はそういった学問を通して人格を磨く事であると言っているのです。

武道の目的

 剣術、柔術、空手などの武術は如何に相手を倒し自分が生き延びるかといった目的で生まれてきました。しかし日本人の精神構造の素晴らしさは、ただ単に格闘技を格闘技として終わらさずにその技を持って如何に世の為に尽くし、人を生かすか、技術を習得する過程において如何に自分を磨くかに重きを置いたことです。
 世界中、いかなる国もいくさ戦の歴史を抜きにしての建国はあり得ませんでした。そこには当然闘う為の武術が生まれました。しかし武術を心の世界にまでに高めた国は日本の他にはありません。
 スポーツについてもそうです。西洋では技術の向上、勝つこと、楽しむことそれ以上のことは求めていません。しかし日本はそうではありません。「道」と名のつく伝統的な習い事は習う過程においても如何に精神的に強くなるか、如何に立派な人間になれるか、どうすれば人格の完成を成し遂げることが出来るかを追求します。

 富名腰義珍先生は「空手道教範」で「『空手』を学ぶ者は明鏡(注2)の物を映すが如く、我意・邪念を取り去り、心中空虚にして只、教わることを極めなければ成らない。そして、常に内には謙譲の心を養い、外には穏和な態度を忘れてはならない。しかし、一旦正義の為に立ったならば敵が幾千万有ろうとも恐れない勇気がなければならない。即ち、真の空手とは内に天地に恥じざる心を養い。外には猛獣をもひれふせしめる威力が無ければならぬ。心と技と内外に兼ね備えて初めて完全な『空手道』と言へるのである。」この様に心掛けて修行することにより初めて人格が出来上がってくると説いています。
(注2)明鏡止水・・・邪念が無く、静かで澄んだ心境

自分を律する心
 武道を学ぶ者は、まず決まった型(かたち)を厳しく教え込まれます。そこには個性(注3)など入る余地はありません。自分を押し殺し空しくし我慢すること、耐えることを教え込まれます。理不尽に思えることでも我慢をし教えに従う、そうすることにより自分を律する心を学びます。自分を律するとは心の欲望のままには動かないと言うことです。それは「如何に自己を支配、コントロールするか」ということです。「自己を支配し、コントロールする」こういった事が出来ない人間は、すぐに切れ他人に危害を及ぼすようになります。
(注3)個性・・今の教育では個性を伸ばすことが良いことだとされ、個性を伸ばす教育に重きを置いていますが、こういった教育方法は大きな間違いです。人間としてやって良い事と悪い事の区別をきちんと子供の時におしえこむのが教育です。個性はどんなに押さえつけようとしても出てくるものです。それが個性です。如何に悪癖を無くすか、人間として身に着けるべき道徳を教え人を変えていくのが教育です。人間としての基礎基本の分かってない者に対して個性を伸ばす事は我が儘と利己主義を助長するだけです。
物事の本質を見極める能力がそのわって、そこから伸びてくる個性、そういったものが本物の個性です。

 人間として強くなるにはまず、自己支配力がなければ駄目です。自分を律し、自己をコントロール出来ない者は、感情的に落ち着かず他人に対して攻撃的になったり、仕事や人間関係が上手く行かなかったらすぐに逃げ出そうと考えます。こういった人間は「弱い」人です。心の中に湧き上がって来る感情がコントロール出来ないということは人格そのものが安定しないということです。

 人はとかく楽な方に流されがちです。何かと理由を付けて楽な方、得な方に向かおうとします。しかし苦しいことや辛いことを自分に課し、目的の達成の為に欲望を抑える。この様に心掛けることによって強い意志が身に付いてきます。この意志の力こそが自分で自分の身を律する心「自律心」のもととなるのです。
 立派な人になりたいと思ったとき、そこには強い意志と行動力が伴っていなければいけません。「私はこういう生き方をしたい」と願ったならば、当然ながらそれに見合っただけの努力と自制心を自分に課して実行しなければ何事も達成しません。

道とは
日本には、剣道、柔道、空手道、あるいは茶道、華道など「道」と付いた習い事が沢山あります。これらすべての「道」は「より格調高い人間になるには何をすべきか」を考え求めるために生まれてきたものです。手段、方法は違っていても目的は一つです。人間如何に気高く美しく生きるかです。気高く(注4)生きると言うことは人間としていかに品格(注5)を身に付けるかと言うことです。そして人格は品性(注6)の向上によって高まります。
(注4)気高い・・品格が高い。上品である。高貴である
(注5)品格・・・身に付いた人格的価値
(注6)品性・・・人柄。人品
 私達は、空手を通して心の修行を目指しています。ですから常に自分の空手には品格が有るかどうかを考え見つめ直して欲しいと思います。もし自分の空手に気品がないと感じたならば一から修行をやり直してください。

 今回をもちまして一年半に亘って勉強してきた道場訓を終えます。剣道場、柔道場、空手道場等、道場と名付く場所には必ずその道場が求めている「道」が道場訓として掲げられています。しかし日本空手協会の道場訓ほど言葉が完結で力強く内容の素晴らしい道場訓に出会ったことはありません。勉強をすればするほど奥が深く味わい深いものです。
私は道場訓を空手協会の宝だと思います。
皆さんも常にこの道場訓を心にえがき、意味をしっかりと理解し、道場訓の求めている理想に向かって日々努力し励んで頂きたく思います。
 
 

 

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