〜道場訓講義その4 「人格の完成に努むる事」 前編〜
瀬戸塾師範 瀬戸謙介
今まで道場訓で・努力の精神を養ふ事 ・礼儀を重んずる事 ・血気の勇を戒むる事、そしてそれらを統合した・誠の道を守る事、を学んできました。道場訓の始めに・人格の完成に努むる事とあるのに、その説明を最後に持ってきた理由はすでにお解りかと思います。「努力」「礼儀」「血気」これらの行いにおいて全てに「誠」の心が無ければ単なる道化芝居で何の意味もないと言うことを学んできました。そして、常に誠の心を持って自分を高める努力をし、人には礼儀を尽くし、正義の為には勇気を持って行動する。日々そういった心掛けで暮らすことにより素晴らしい人格が出来あがっていく事を道場訓は説いています。 |
人格とは |
東京都では、今から4年ほど前から「心の東京革命行動プラン」というものを計画し実行しています。この計画の趣旨は、「ここ数年、今までの常識では考えられないような性質の事件が青少年の手によって数多く引き起こされて来ました。子供達は生きる目的を失い、心が荒み、このままでは社会全体が間違った方向に向かうのではないか」と行った危惧から石原都知事が中心となって「心の東京革命」を推進してきました。その活動の一環として東京都では「心の東京革命」を広く都民に周知させる為にアドバイザーの養成に力を注いでいます。当時私が関わっていた「心の東京革命地域懇談会」が東京都の要望で主催というかたちで「アドバイザー養成講座」を開いた時のことです。東京都から派遣されて来られた講師の先生が「人格」について下記のようなことを話しました。 「人には人格などは無いのです、これが人格だと思っても、人格はタマネギのようなもので、皮をむけばまた次の人格が現れてくる。次から次へと別の人格が現れてき、最後の芯の中は空っぽで空気のようなものです。人も同じです。人格なんて空気のように空っぽなものです。ですから人には人格なんて無いのです。人格は心の中に有るのではなく人との付き合いの中にあるのです。」 私は、この講師の話を聞いて何と情けない人生を歩んできた人かと思いました。この様な人を講師として派遣するような東京都も東京都だとがっかりし、それ以来私は「心の東京革命」の推進から手を引きました。 なぜ情けなく思ったのか、それは彼が今迄の人生に於いて自分の信念、意思というものが無く、その場その場の雰囲気によって何が一番受けるかだけを考え、口先だけで世の中を渡って来ており、またそれが一番の世渡りだと信じ吹聴しているからです。このような者が人間として有るべき姿、人の道を教える為に派遣されてきたのかと思うと石原都知事もいい加減だなとつくづく思いました。 人格というものは、自分の意志で物事を判断し、そして自分の進むべき道を決め、そして自分の取った行動に対しては何処までも責任を取る。そういった心構えや信念が表に表れ人を感化(注1)する、それが人格です。その場の状況によって右に付いたり左に行ったり、自分の意思で自分の行動を決定しない、そういう人は人ではありますが、信念のない行動には人格はありません。そういう意味ではまさに彼には人格がないのかも知れません。 (注1)「意志」「信念」「感化」等といった言葉を聞くと良い意味に捕らえがちですが、悪にも意志や信念の感化はあります。強盗をしようと思い仲間を誘う。これは強盗をしようと言った意志が働き、回りの者を感化し仲間に引き入れ、信念を持って実行に移す。そして被害に遭った人は加害者を恨む、これは悪の感化です。 しかしこの講師の姿こそ戦後の日本人の姿そのものです。長い物には巻かれろ、気を見て敏になれ、いかなる手段を使おうが勝った者が勝ち、そして学校でのディベート教育、これら全てが自分をいかに正当化するかの為の方便、言い訳の訓練です。アメリカの裁判などいい例です。絶対に犯人だと解っていても、有能な弁護士に頼むと無罪になります。アメリカでは何をもって有能な弁護士というか。それは、口が上手くて演技力の優れている者のことです。そこには真実や誠実さなどは無くてもいいのです。陪審員を酔わす演技力さえ有ればいいのです。どのように言えば相手を納得させ、上手く丸め込めることが出来るかといったテクニックを学ぶのがディベートです。 先ほど紹介した、「心の東京革命」の講師がアドバイザーの心得について、「アドバイザーには心はいりません。アドバイザーはテクニックさえ覚えていただければ良いのです。そのテクニックの通りにやっていけば上手く行きます。カウンセリングは型から入って行けばよく、そこには心は必要ありません。」とも言っていました。この様な考えなどは典型的な例だと思います。 喜怒哀楽などの感情、意志、知識、情操など、人間の精神作用のもととなるものが心です。人との付き合いも始めに心ありきです。心が通って初めてお互いにうち解け合えるものです。こうやれば相手は喜ぶ、こうやれば相手をその気にさせられる、そういったテクニックだけの心のない付き合いは虚しいだけです。 テクニックを教える以前に心を教えることが最も大切です。心の教育を忘れ、受験のテクニックばかりを教えてきた教育の弊害が今の世の中を混乱させていることに気が付かないのでしょうか。 学校の道徳教育などで教えている「相手の立場になって考える」も相手の対場になって考えることはとても大切なことですが、ややもすると言い逃れの手段に使われます。自己の確立が無く信念や思想の無い者にとって相手の立場になって考えるというのはその場を上手く修めようといったテクニックだけが身に付き八方美人になってしまいます。本当に大切なのは、自分の主義主張(主張と感情論とは違います。主張の中には冷静なる理性と知性が伴っていなければいけません)をハッキリと述べ相手と議論を闘わす中から真実を見いだすことです。 戦後教育で意識して避けて来たのが「正義とは何か」「真の勇気とは何か」を考える教育です。私がこのようなことを言うと、「正義なんてこの世の中に無い。今正義だと思っていても時代が変われば変わってしまう。戦前の教育で正義だと言って教わったことが戦後全部ひっくり返ったではないか」と言う人がいます。もし本気でそのようなことを言っているのならばその人は「私は物事の判断は善悪で決めるのではなく損得だけで判断しています。」つまり「私は人間としての良識など持ち合わせていません」と言っているのと同じです。人間生きている間に必ず幾つかの岐路に出くわします。その時、人はどちらの道を選ぶかを判断する時に損得だけではなく、どちらの道に進むのが人の道として正しい道なのかを考えて判断しているはずです。人は誰しも必ず心の中に尺度の違いはあっても善悪の基準となるものを持っているはずです。世の中に正義なんて無いと言っている人は、「私には正邪善悪の区別は出来ません。そして人間としての心を持っていない人です。」と言っているのと同じです。 「真の勇気」に関しても「戦う気概が無くては真の勇気などあり得ません」というと「戦うなんてとんでもない、争いごとは善くない」といった顔をする。みんな仲良く手をつなぎ、話し合いをすれば物事は全て解決する。平和、平和と言っていれば戦争は起きないと思っている人が世の中には沢山います。 ここまでの領域は侵してもいいが、これより先は一歩たりとも踏み込ませないと言った気概が有ってこそお互いの人格を認め合うことが出来るのです。 「命」に関してもそうです。人の命と地球の重さなど、対比しようがないものを比べさも名言のように「人の命は地球より重い」と福田元総理が言った訳の分からない言葉に「そうだそうだ、人の命はそれ位重いのだ」と何となく納得してしまうような国民に日本人はなってしまったのかと思うと情けない限りです。 世の中には人の命より大切なものがあります。人はどんなにがんばって生きたところでせいぜい百歳ぐらいまでの命、いずれは必ず死にます。人間にとって大切なのは如何に長生きをするかではなく、人間として如何に立派な人生を歩むかです。 その為に、人は学問を修め、武道によって精神を鍛錬し勇気と胆力を養い人間としての本質を磨くことが大事なのです。 安岡正篤氏は「人物を創る」という著書の中で「学問」について以下のように述べられています。 東洋には「四部の学」と称するものがある。これは東洋における学問上の分類であり、「経」「史」「子」「集」のことをいう。このうち「子」は独特の観察と感化力をもつ優れた人物の著書のことをいう。従って「経」に従属させるべきものだ。「集」とは詩文である。だから「四部の学」は「三部の学」に集約できよう。これは私どもが学問修養をしていく上において非常に意義深い分類方法であり、こういう分類方法は西洋の学問の分類方法では見られない。 「経」とは人間如何にあるべきかを学ぶ学問です。経は信念を養い、理性(注2)を高め、人間性について深い洞察力を得る為の学問です。 「史」とは歴史を学び、史実を検証する学問です。史実は既に結論が出ており変えることが出来ません。ですから人間の心理、行動の一切を明らかにし、実践における正邪善悪を学ぶのに最適です。史学は経学を実証するもので、「史」を読む時、歴史はよみがえり、教訓深い物になります。「経」は理性や知性を高めるものであるのに対して、「史」は意志(行動哲学)を養うものです。両者を兼ね修めて初めて知行合一的に全人格が練られてきます。 「集」とは我々の情操を練っていく学問、詩文や音楽、絵画などの優れた芸術に触れ感性を豊かにする学問のことです。 そして安岡氏は「本当に磨かれた人として自己を養っていくにはどうしてもこの原理の学問と、実践の学問と、情操を養う方面の三つを深めてゆかねばならぬ」とも述べられています。 (注2)理性とは感情的な欲求に左右されることなく思慮的に行動する能力。真偽、善悪を識別する能力。 また安岡氏は「読書」に関して「何と言っても書を読まなければならない。その書もつまらない日々の雑誌とかジャーナリズムにもてはやされるような書はいかぬ。やはり我々の信念を創り、見識を養う優れた人生観、世界観の書を読まなければならぬ。そのような書を読むと精神的のみならず、肉体的若さも持つことが出来る。」と仰っています。その通りだと思います。良書に触れる知的刺激により眠っていた自分がゆり起こされるような衝撃を受け、体中に正気がみなぎるような感覚になります。そして自分を見つめ直し自分を創造することが出来ます。これはとりもなおさず精神的にも肉体的にも若返ることだと思います。 |
人間の本質 |
勉強が出来るとか運動神経が良いとかそういったことは人間の本質ではありません。本質とはこれがあるからこそ人間であって、これがなければ人間ではないというものです。勉強が出来るとか、空手が強いとかそれは出来ることにこしたことはありませんが、出来ないからといって人間であることに関して致命的な欠陥とは言えません。人間として何が一番大切かというと「徳」を備えているかどうかです。 広辞苑で「徳」を引くと・道を悟った立派な行為・善い行いをする性格・身に付いた品性・人を感化する人格の力等と書かれています。 この「徳」を身に付けることがまぎれもなく人格の完成につながっていくことです。 徳とは「正義」「公正」「勇気」「気概」(注3)「節度」「廉恥」(注4)といったものを兼ね備えていることです。そして「徳有る人」はしっかりとした信念を持ちその信念を貫くだけの見識と胆力が有り、行動力の有る人のことです。これが「正しい」と思ったなら一人でも誤りを訂正して立ち向かっていく勇気を持っている人のことです。そして自分が間違っていたと気づいた時には非を認め正しい道に向かって進むことの出来る人のことです。 もともと人間は徳の有る人とない人とに分かれて生まれてきたのでは有りません。徳は、人それぞれの心の置き所によって決まります。向上したいと常に心に思っている人、その日が楽しければそれで良いと日々刹那的に過ごしている人、あるいは世をすね不平不満をもって一生過ごす人、とでは自然と徳の差が生じて来るのは自然の理です。そしてその徳が体の外ににじみ出て来たのが人格です。つまり、人格とはその人の人生に対する心構えが表ににじみ出てきたものです。 (注3)気概とは困難に挫けない強い意気。気骨。いきじ。 (注4)「廉恥心」と「羞恥心」廉恥心とは恥を知る心であり、羞恥心とは恥をかくことを嫌がる心のことです。人は恥をかくのを嫌がっていては何事も上達しません。しかし恥を知る心を持たずに、羞恥心を無くしてしまったならば人間堕落していきます。廉恥心を持って恥をかくことを恐れない、これが大切です。 |
後編につづく。次号はいよいよ人格の完成の核心に迫っていきます。 |
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