~江戸時代と現代との比較~
瀬戸塾師範 瀬戸謙介 平成20年1月の大人の勉強会で私はある意図を持ってこのテーマを取り上げました。そして勉強会の冒頭で江戸時代と現代の違いを思いつくだけ参加者全員に挙げて貰いました。初めての試みでしたが、なかなか面白い比較論が出てきました。 |
江戸時代 →現代 士農工商の身分制度があった →職業選択の自由がある 移動は、籠、人力 →電力、ガソリン等による動力 食べ物(限られていた)→世界中のものが食べられる 仇討ちが認められていた →仕返し、仇討ちはダメ キリシタン禁止令、鎖国 →宗教の自由 幕府中心とした中央集権 →三権分立 衣服(ちょんまげ、等) →洋服 選挙がない →選挙がある 結婚が自由でない →結婚が自由に出来る 物を大事にする、リサイクルが進んでいた →物を無駄にしている 学校が限られている →学校を自由に選ぶことができる |
とても活発に意見が出ました。なかでもユニークだったのは「江戸時代は刀を差していたが、今は手がその代わりをしている。」さすが空手をやっている若者でなければ浮かばない発想だと思いました。 私は、江戸時代と現代の違いでまず始めに「封建制と民主主義の違い」が出てくるものと思っていましたが最後まで出て来なかった事に少し困惑と驚きを感じました。 私は昨年の暮れまでに一年かけて瀬戸塾の塾生に関心ある時事問題を取り上げてレポートを提出するように求めました。何故時事問題を取り上げたのか、その訳を理解して貰いたくて回り道のようですが今回この題材を取り上げたのです。 |
士農工商 |
士農工商とは、元々は儒教における考え方で(官使、百姓、職人、商人)身分の上下関係を示す考え方です。 江戸時代に於いて、「農工商」は身分の上下を表す用語としては用いていません。江戸時代の諸制度では武士を上位にし、一般庶民は「百姓」「町人」と区別して呼んでいました。その区別の方法はただ単に村に住んで田畑に従事する者を「百姓」と呼び、町に住んでいる者を「工」「商」関係なく「町人」と呼んでいました。両者の間には上下の身分的関係などはありませんでした。工の職業に従事しているか、商に従事しているかは呼び名が違っているだけで制度的に区別するものでなく、商人を職人より冷遇する制度はありませんでした。そして百姓が百姓以外の仕事に従事してはいけないといった制約もなく、百姓身分で「商」や「工」等の事業に進出し財を成した者も多くいました。江戸の末期から明治に活躍した「大倉喜八郎」などは典型的な例です。 大倉喜八郎は越後国(新潟県)から十七歳の時に丁稚奉公として江戸の鰹節店奉公し、それから独立し両替屋、大倉鉄砲店などで財を成し、明治維新後に大財閥となった人物です。 現在の大成建設、大倉商事、千代田火災海上、日清製油、東海パルプ、帝国ホテルなどまだまだここには書ききれないほどの多くの企業が大倉喜八郎によって創設されましたが、戦後進駐軍によって大倉財閥は解体され現在多くの企業に分散させられました。 このように江戸時代の「農、工、商」は身分を表し身分間の移動を禁じていたという言葉ではなく、現在我々が、サラリーマンとかお百姓さんと言っているのと同じ、ただ単に職業の区別を表す言葉だったのです。 |
身分移動 |
江戸時代、百姓・町人の間での身分の移動はさほど難しくありませんでしたし、武士と庶民の間でも、養子縁組や婿入り、あるいは御家人株を買うなどの手段によって庶民も武士になる事が出来ました。また才覚ある者は例え百姓、町人であっても登用された例は沢山あります。 士農工商の身分制度が生まれた理由 では、なぜ私たちは疑いもなく江戸時代に「士農工商」という身分制度があったと思いこんでいるのか。それは明治時代以降の歴史学者や大衆小説家が、江戸時代には士農工商という身分制度があり武士による支配が厳しく暗黒の時代だといったイメージを植え付けようとした為です。 何時の時代でも、どこの国でも、時代が変わると必ず時の政府、権力者は前の時代が如何に悪く酷かったかという考えを庶民に植え付けることによって「新しい時代になって良かった。新しい時代に生きていることはなんて幸せなのか。」と思わせるために行われている政策なのです。 第二次世界大戦後、戦勝国である国々が如何に戦前の日本はひどい国だったかという考えを日本国民に植え付けるために、ラジオや新聞報道を規制し、日本軍が如何に残虐であったかという報道だけを何年もの間、流し続けました。そしてついに日本人が自虐的歴史観を抱くようになったのと同じことです。結果として江戸時代もマルクス主義的な歴史認識により、武士を支配階級、農民を被支配階級と歪曲し、如何に農民は武士によって搾取されていたかなど農民の生活の悲惨さだけを強調し、階級闘争の論理的道具に使われ決定付けられたのです。また商人も、資本家として人民から搾取して蓄財し、贅沢をしている「ブルジョワ階級」としてやはり闘争の標的にされました。 現在、格差社会が叫ばれ問題になっていますが、(私自身は、日本にはまだ格差社会など存在しないと思っていますが)それを言うならば江戸時代はもっと現代よりもひどい格差社会でした。江戸時代、誰が一番貧しく貧乏であったかと言えばそれは「武士」でした。マルクス的歴史学者は「水飲み百姓」と呼ばれた農民が一番貧乏だったと言っていますが、当時の農民は結構豊かで豪農と言われる者も沢山いました。それに比べ、ほとんどの武士は畑を耕し内職し、やっと生活を維持していました。しかし江戸時代は現代のように金持ちが社会的に評価されるのではなく、貧乏でも武士の精神性や生き方そのものが庶民から尊敬され、武士は武士としての誇りを持って生きていました。 驚くことに「士農工商」という言葉は部落差別を連想させるとして現在は放送禁止用語として扱われているそうですが、塾生諸君には正しい歴史認識を持って欲しいと思います。 |
武士とは |
武士は社会的地位において一番上の身分として置かれました。これは当時の社会情勢からして当然のことだと思います。 士農工商の元々の意味では「士」が意味するところは中国の「官吏」でした。これが日本に輸入されて「士」=「武士」となった訳です。武士は政治の全てを担っていた事を考えれば当然の事ですが、私たちが「あいつは侍だ」と言った時には良い意味で使われるのに「あいつは役人だから」と言った時にはあまり良い意味では使われません。それはどうしてでしょう?そのヒントの一つがここにあります。 山鹿素行(士道) 「この世の全てのものは、陰陽二気の絶妙な組み合わせによって成り立っている。その組み合わせが最も見事に出来上がっているのが人間である。そこが人間は万物の霊長と言われるゆえんである。そのような人間の中で、ある者は田畑を耕して食料を供給し、ある者はいろいろな器物を造り、又あるものは品物を交易し利潤を上げることで世の中のために尽くしている。こうして農、工、商にたずさわる人達は、それぞれの使命を持って生活しているのだ。それなのに武士は大地を耕すことなく、物を造ることもせず、売買に従事もせず暮らしていけるのはなぜなのか。 我が身を振り返ってみるに、先祖代々の武士で幕府に奉公する身分にある。つまり、耕さず、造らず、商売せずという境遇にいる「士」である。このような武士に生まれた以上、当然として武士としての職務がなければならない。なんの職分もなく徒食(働かずに暮らす。無駄)しているというのでは遊民と軽蔑されても返す言葉がない。だから真剣に我が身について、この点を詳しく反省し、考えなければいけない。武士としての勤めを果たさず、一生を終わるのならば、それは天下の賊民と言わねばならない。」 そこで、素行は武士の本分を次のように考えました。 「主人を得れば、誠心誠意仕え、朋輩には信を持って接し、独り慎んで義をもっぱらにすることにある。これら正しい人倫の道は天下万民が行わなければいけないことであるが「農工商」にたずさわっている人々は日々の仕事が忙しく、常にその道を尽くすのはむつかしい。ところが、士はそうした口実は許されない。したがって「義」の実現に全力を尽くし、農工商の三民がこの道をゆるがせしないよう、そして人倫の道を乱す者がいたならば、速やかに罰して人倫をまっとうするようにするのが重要な任務である。その為に武士は庶民に範を示さなければならない。」 武士はこのような気概を持って政務を行っていたからこそ、領民の間に「御上(おかみ)のする事には間違いがない」という信頼関係が定着し、一般市民は政治のことに気を揉む事無く自分の成すべき仕事に専念出来たのです。 御上のことが信用できなくなった現代は最も不幸な時代ではないかと思います。 |
封建制の定義 |
「封建制」とは、中世ヨーロッパの社会を特徴づける支配形態を呼ぶ歴史学の用語です。その支配形態とは、領主が自分の支配する領地の全ての権限を有し、生産者である農民を農奴(生かすも殺すもどのように扱うかは領主の意のまま)として支配する社会経済制度のことを指しています。 この定義からいくと、江戸時代は一般的に封建制(時代)と言われていますが、江戸時代を封建時代と呼ぶには大いに疑問があります。 日本では領主(藩主)の権限は「税の徴収権」があっただけで、ヨーロッパに見られるような領地の私有と領民への農奴としての隷属的支配権は持っていませんでした。領主は幕府から国替え命令が出たならば即座に新しい領地に転封(てんぽう、てんぷう)しなければならず、その時に強制的に領民を連れていくことは出来ませんでした。つまり、江戸時代の藩主には土地の支配権も無ければ、ましてや領民を奴隷として私有する権利など持っていなかったのです。ですから、日本には本当の意味での封建制は存在しなかったのです。 幕藩体制の下で大名や武士は、土地や人民を支配したのではなく、石高に相当する年貢や夫役の徴収権を持っていたにすぎません。ここに中世ヨーロッパとの大きな違いがあります。 日本においての領主と家来、あるいは領民との関係は「領主は、もし家来や領民の持っている権利を侵す者がいたのならば身体を張って護る。家来や領民はその恩に報いるために領主に尽くす」即ち「御恩と奉公」という関係で結ばれていました。この「御恩と奉公」という考えは武士が日本の歴史上に現れた時から培われてきた精神です。 八幡太郎義家(源義家)が自分の家来が屈辱を受けたことを聞くなり、京都から単騎相模まで馬を飛ばし途中追いついてきた部下と共に相手の屋敷に切り込み討ち果たす。理由などいらない。部下が屈辱を受けた、それを見捨てるとは大将として失格であり、どんなことがあっても部下を庇う。このような御恩と奉公という強い絆で結ばれていたのです。 鎌倉幕府の五代執権、北条時頼の「鉢の木」の物語も良い例です。 「鉢の木」の物語 赤痢にかかり執権の職を甥の長時に譲った時頼は最明寺入道と名のり各地の民の生活を見て回りました。群馬県の佐野にさしかかった時、大雪に見舞われました。あまりの大雪に時頼はやっと見つけた家に泊めてくれるようにと頼みます。応対したその家の妻は主が留守なので一存では泊めることが出来ないと言います。時頼は主の帰りを雪の中で待つことにします。 そこへ戻った家の主は「お泊めするにも余りにも貧しく見苦しい暮らしぶりなので」と断りこの山を少し越した所に山里があり、そこに宿があるからと進めました。時頼は吹雪の中を歩き出しますが、余りにも激しい降りのため気の毒に思い呼び戻し泊めることにします。 主は客となった時頼に粟飯をすすめます。客を泊めると言っても貧しさのあまり夜具がありません。夜が更けてきて寒さが厳しくなりますが焚き火をして暖をとる薪さえ無い貧しい暮らしです。仕方なく主は大切に育てていた盆栽を伐って火にくべ、時頼にあたるようにすすめます。 時頼が主の名を尋ねると、佐野源左衛門常世と名乗り「一族に領地を横領されたため今はこの様な惨めな姿となってしまったが、鎌倉に一大事が起きればぼろといえども鎧に身をまとい痩せ馬にまたがり馳せ参じるつもりです。」この話を聞いた時頼は心を打たれたものの名のることが出来ず、源左衛門に「もし鎌倉に来ることかあれば自分を頼るように」と言いおいて雪の中を去っていきました。 後日、鎌倉から召集があり源左衛門は痩せ馬にまたがり鎌倉に馳せ参じました。辿り着いた鎌倉には諸国から数万もの侍達が集まっていました。そこに「佐野源左衛門なる者はおるか、居るならば前に出でよ。」と呼び出しがあり、源左衛門は北条時頼の御前にまかり出ました。古びた鎧に錆びた長刀のいでたちをあざ笑う侍達の前を源左衛門は悪びれることなく堂々と進み出ると、目の前に表れたのは、あの雪の日の僧、最明寺入道こと北条時頼の旅の姿でした。時頼は武士の忠誠心を試すために鎌倉武士に召集をかけたのでした。源左衛門の嘘でなかった言葉に感動し、その志しに報いるため、時頼は奪われた領地を源左衛門に戻し、雪の日に焚き火で燃やした盆栽の梅、松、桜に因んで加賀の梅田、越中の桜井、上野の松枝の三箇所の荘園を与えました。 この物語は鎌倉幕府に一大事が起き「いざ鎌倉」の時には何を置いても駆け参じるという「鎌倉幕府と御家人」との絆の強さ(ご恩と奉公)を語っているのです。 |
藩主の心得 |
山形県米沢藩の領主、上杉鷹山は財政破綻をきたしていた米沢藩を立て直した名君として有名な人です。鷹山は三十五才の若さで隠居しましたが、その時、新藩主、治広に治世の心掛けとして下記の三条を与えています。 一,国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、 我私すべき物にはこれ無く候 一,人民は、国家に属したる人民にして、 我私すべきものにこれ無く候 一,国家人民の為に君にて、 君の為に立てる国家人民にはこれ無く候 国家(藩)や領民は藩主の私物ではなく、藩主は藩や領民の為に存在する者であると鷹山は言っています。 この言葉は、アメリカ大統領のリンカーンが民主主義の大原則として演説した「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉に相通じるものがあります。 リンカーンがこの言葉を残したのは一八六四年ですが、鷹山がこれを書き残したのはリンカーンを先がけること七四年前の一七八六年のことです。この時すでに日本では民主主義の理念は定着していたと言っても過言ではありません。日本ではこういう考えは江戸時代でなく鎌倉幕府が出来た頃すでにありました。 初代会津藩主、保科正之(一六一一~一六七二)は「高齢者年金制度」(男女の区別無く九〇歳を超えた者は終生、一日につき玄米五合を支給する)「救急医療制度」(行き倒れの人間を見たら、とにかく医者に診せよ。治療費がなかったら藩に申告すれば藩が持つ)など数多くの福祉行政を行っています。 このように江戸時代の領主は決して威張り散らしていたのではなく民のことを常に考え政治を行っていました。ここまで読んで頂ければ、明らかに中世ヨーロッパの封建制と江戸時代とは本質的にまるっきり異なると言うことがお解り頂けたのではないかと思います。 江戸時代の庶民は政治のことなど考えずに日々の暮らしを堪能していても、御上がちゃんと政治のことはやってくれると安心して暮らしていました。そういうところから「御上のやることには間違いがない」との考えが庶民に浸透したのです。 |
職人技 |
ここに日本の職人技術がいかに素晴らしかったかの一例をあげます。 ハーバート・ジョージ・ポンティングはイギリス人写真家で1902年明治35年以後三度来日し日露戦争にも従軍。1910~1912年スコット大佐の南極探検にカメラマンとして同行しましたが、次のように述べています。 「私は日本で手に入れたシガレットケースを持っている。蓋の上には、松の木に一羽の鷲が止まっていて、二羽の小鳥を今にも襲いかかりそうな図柄である。小鳥は木の上の敵に口を開け恐怖の声を上げている。鷲と松の木は濃淡様々な金で細工され、松の枝には銀の雪が降り積もり、雪がぱらぱらと舞っている。鳥の羽や松葉が一枚一枚克明に刻まれ鉄の中に打ち込まれ、松の肌は驚くほど克明に模様が浮き出ている。裏蓋には火を吐いている龍が怒ってのたうち回っている図柄が描かれている。龍は金で象嵌され鱗の一枚一枚は別々に細工されている。蓋の内側には、山頂に銀の雪を被り、金で縁取られた富士山の絵が細工されている。この美しい日本の工芸品は、いくら見ていても決して見飽きない。 私がその真価を本当に認識したのは、スペインで最も有名な象嵌細工の工房として知られているトレドの大きな刀剣製造所を訪問してからのことである。ある日、私は象嵌細工をしている部屋に入って、このシガレットケースを取り出し、職人の机の上に置いた。その男は驚きの叫びを上げてそれを手に取り、一目見るや否や、一言も言わずにそれを持って、奥の部屋に入って行った。 しばらくして、熟練した職人五、六人を連れて戻って来て半時ほど拡大鏡でケースをみんなで代わる代わる調べ、溜息をつきながら今までこれほどの品物を見たことがない、意匠の美しさに於いても、仕上げの完璧さに於いても、これに匹敵するような技術を持った者はスペインには一人もいないと言った。この物の素晴らしさが、ヨーロッパの最高の専門家によって証明されたのである」 この例で解るように、武士が民の見本となるように努めた結果、江戸時代はとても政治が安定し庶民は日々の生活の不安を抱かずに自分の職に専念できたおかげで、江戸文化は世界最高水準に達していたのです。浮世絵がゴッホを初めヨーロッパの画家達に多大なる影響を与え、日本の磁器作家、柿右衛門達がヨーロッパのマイセンなどの磁器メーカに多大な影響を与えたことなどを見ても、いかにえ江戸の職人技術が高く、世界最高レベルにあったかが解ると思います。 |
「封建」の語が用いられ普及した時期 |
日本において「封建」の語が用いられ普及したのは、明治維新後の文明開化の時期と、第二次世界大戦の敗戦したときです。自称進歩的文化人達が、旧来の権威を排除する際に「封建」「封建的」という用語を用いて相手の意見を封じるために用いたのです。「あいつは封建的だ」というときは時代錯誤の遅れた者との意味合いが強く、正確な意味での封建制と結びつけて言ってはいないのです。 |
民主主義 |
民衆の力を背景として行われる政治が民主主義政治で、これを意思形成の原則として主唱する政策理念が民主主義です。 民主主義とは「個人の、自由、平等、参政権を認め、思想、信条、宗教、表現など個人の内面に関する事柄に関して国は一切干渉しません」といった精神的に大人として完成した人々を対象とした政治形態のことです。 民主主義においての意思決定は多数決を旨とします。その欠点としては、話し合いの場で(国会)で意見が複数出た時には互いの折り合いが付きにくく、話し合いが長引いて政治が停滞しやすい事があります。民主国家、アテネが亡びた最大の原因はここにありました。また、民主主義を盲目的に広めると、知的教育を受けていない人、非理性的な人、普段政治のことなど何も考えてない人などが有権者となり、結果として国の絶対的レベル、水準は下がります。なぜなら、大衆はマスメディアなどの情報に踊らされ流れやすいからです。 「民主主義政治は独裁を生まない」と錯覚している人が沢山いますが、国家社会主義ドイツ労働党(ナチス党)が、民衆の支持を扇動し、民主的な方法で政権を握り独裁政治へと移行したように、独裁者が民主的に選ばれることも有り得ます。 |
塾生に、時事問題のレポートを 提出するように求めた理由 |
それは、私たちが生活している現代は、民主主義の世の中だということにあります。民主主義とは国民一人一人がしっかりとした考えを持ち、国政に携わっているという自覚を持って一票の行使をしなければ、世の中(国)が退廃的になっていくからです。 現代では、ほとんどの人が真剣に国のことや将来の日本のことなど考えずに、何となくムードに流され、或いは我が村に橋を掛けてくれる、道を造ってくれる人を議員にという目先の利益によって投票しています。ですから、代議士も国のことを考えるよりもいかに国の税金を引っ張り出し、公共事業を増やすかといったとしか考えていません。 よく見て下さい、代議士の顔を。実に欲の皮が突っ張った醜い顔の連中ばかりじゃないですか。特に議員を長年やっている連中は。 時事問題のレポートを書くことによって、世の中のことを見つめ直し、これを機に真剣に世の中のことを考えるようになって欲しく思い、私は塾生に課題を出したのです。国民一人一人の質を高める以外にその国を良くする方法はありません。今、日本を取り巻く世界情勢とそれに対する政治家の対応を見ていると、このままでは確実に日本は滅んでしまいます。それにひきかえテレビ番組を見て下さい。なんと退廃的で低俗でお気楽な番組が多いことか。しかしこれが国民の求めている内容でありレベルであるということを、しかと我々自身が肝に命じ、反省しなくてはいけないと思います。 冒頭での江戸と現代の比較で塾生が提示した「食べ物・仇討ち・キリシタン禁止令、鎖国・幕府中心とした中央集権・結婚・リサイクル・学校」等の相違点について、今回は紙面の都合上割愛しましたが、折を見て書いていきたいと思っています。以上 |
▼江戸と現代の比較 勉強会感想文 |
今回、初めての試みで勉強会の終わりに10分程時間を取って参加者全員に感想文を書いて提出して貰いました。その中の数名を掲載します。 『今日は、自分の無関心を強く感じた日でした。日本史についても、江戸時代も何時代も全て「昔」の話し。政治についても、選挙に行ったのは今までに一回だけです。平和な時代に甘んじていたので、民主主義が独裁を生む可能性があるなんて思ってもみませんでした。自分は今の時代の方が良かったとしか考えていなかったのに、窮屈だと思っていた江戸時代の方が、システム化されていた世であっただけ生きやすかったのではないかとさえ思われます。リサイクルにしても、徹底されていたという事は、制度がきっちりしていたから。自由という事は、逆に結果として自由をうばわれる結果を招くのではないかとさえ思われます。K.M(一般)』 『選挙にはなるべく行くようにしているのですが、投票基準は「なんか感じ良さそうだから」「今回は民主党でいいや」と適当なものばかりでした(ちなみに、いま仕事で政治関連の本を作っています。恥ずかしげもなく・・・) 今日の講義では、解っていたようで、勘違いしていたことが沢山ありました。秀吉のキリスト教弾圧しかり、士農工商しかり。読者に真実を伝えるマスコミ人としても、一票の権利を持つ日本国民としても、勉強していかないといけない、そんな気持を強く持ちました。S.N(一般)』 『江戸時代と現代の比較に置いて、今まで自分が持っていた認識が、大きく変わりました。特に江戸時代は封建制度などではなく、民主主義の理念を既に持っていたという点は、非常に感銘を受けました。 江戸時代は藩主が領民を支配下におき、厳しい身分制度の上に、年貢等を収めさせるという典型的な封建社会だと思っていましたが、士農工商は明治時代に後付された制度であり、職業の別を表しているにすぎず、更に「人民は領主の私物ではない」という理念が江戸時代に存在した事に非常に驚きを覚えました。N.U(一般)』 『私は今日の話を聞いて、昔は武士が人の正しい歩むべき道を追求でき、それにより他の職業の人が常識をもち、人道を外れることがなかったということが、なぜ今につながらなかったのか疑問に思いました。 今の政治家は、義を追求するどころか、義にかなった行動をしていないと思います。それに、周りの大人たちが選んだ人だというのもショックです。 私はまだ二十歳になっていないので選挙権はありませんが、今のうちから政治について少しずつ解っていきたいと思います。そして選挙権を持ったときに、自分が正しいと思える、信頼できる政治家に、一票を入れたいと思います。また、そのような政治家がいてくれると、そして周りの人もその人が良いと思えるような世の中になっているといいです。K.N(中学一年)』 |