~大学における人格の形成 ~

瀬戸塾師範 瀬戸謙介

 この時期になると学生生活に対して不安を感じ出す者が出てくる
 
  五月病と言う言葉がありますが、何の目的意識も持たずに大学に入った者は入学した喜びから目が覚める丁度この時期になると現実に引き戻され、自分は何をしたら良いのか目標が見つからず不安に駆られるように成ってきます。自分の人生はこのままで良いのかとか、気の早い者はこのままで就職出来るのかと悩み出します。(このままでは就職出来ないから自分に実力を付ける為に大学に入ったにも拘らず)
 
悩むということは即ち、或る物事を解決出来るだけの、知識、見識、能力つまり実力に裏付けされた自信がないという事です。従って先ず、自分に実力を付けることが大事です。そして実力を付けるには努力、勉強する以外に方法は有りません。(努力の大切さは「努力の精神を養ふ事」の記事を読んで下さい
君達は、大学とはいかなる場所だと思っていますか
 
 「大学とは学問を通じての人間形成の場である」
 この言葉は私が卒業した獨協大学の本部棟の入り口の石碑に刻まれている、 初代学長の天野貞祐先生が書かれた言葉です。
 人間形成には様々な手段があると思います。よく世間ではスポーツの一流選手や、一芸に秀でた人達をあたかも人間が出来ているかのように評価します。しかし必ずしもそのような人が一流の人物とは限りません。私の知る限りでは、一流選手であれ一芸に秀でた人であれ、やはり学問に通じた人物でなければ決して一流の人物とは言えません。
 頭の軽い一流のスポーツ選手を良く知っていますが、陰ではろくでもないひんしゅくを買うようなことをしている人が沢山います。(モーグルの里谷選手や全日本のメンバーに選ばれているラクビー選手の不祥事など)
 学問を修めていない職人もとかく偏屈になりやすいです。しかし学問だけでも駄目です。頭でっかちのへりくつ屋が出来上がってしまいます。学者臭い人間程世間をいかに毒しているかは、テレビによく出てくる学者風コメンテーターなどを見ればよく解ると思います。いくら学問が大切と言ってもここの所が大切です。しかし人格の形成は学問なくしては成し得ません。


 学問の意義
 
 人間は何故勉強をするかと言えば、勉強をすることにより人間としての視野を広め、深く物事を考えることによって理性や知性を養い「思慮、分別」を高める為にあります。

 世の中で何が正しくて何が間違っているのか、正邪善悪の区別をつけ、「正しい道」とは何かを判断する能力を養い、その「正しい道」を歩む為に勉強をするのです。 
 ただ純粋さと真面目さのみに裏付けられた行動は評価するには値しません。物事、その事が正しいかどうかを判断する為には知性と理性が必要です。本人は世の為に正義を行っているつもりでも、その行動を判断する理性、知性が充分に備わってなければ、社会を混乱させ自分も不幸に成ります。そういった事例は世間には沢山あります。ですから皆さんは勉学に励み、よき本を読み、立派な人に会い自分を磨き、思慮を深め、視野を広げる努力をしなければいけません。

君達は勉強していますか
 
 君達は大学生です。改めて言うまでもなく学生の本分は「学業」です。勉強をしない学生というのは学生といった定義から遠くかけ離れた存在です。走らない自動車とかソフトの入っていないコンピューターなどと同じように世の中にとって不要なものです。大学生というものは絶対に勉強をする存在でなくてはいけません。ましてや大学生というものは自分で自分の進む道を選んでその学校に入学して来たはずです。ですから自分の目指してきた学問をしっかりと勉強し身に付けることが大切です。

 論語に
         「学びて時に之を習う、亦た説ばしからず乎。」
 という言葉があります。
 学びて時に之を習うの「学び」はもちろん学問の事です。
 「時に習う」の「時」は時々ではなく、常に復習をし時に応じて(必要に応じて)実践する。実践することによりそれが生きた学問となり、より物事の理解が深まり、そこに人生としてのよろこびが有るのではないか。といった意味です。

 学問は学んだことをすぐに復習し、実践することが大切です。実践することにより書から学んだ学問が生きた学問となり、学問が身に付いたことが実感出来ます。一生懸命勉強して身に付けた知識を実践し、それが世の中に役だった時に学問を学んだ喜びを感じます。
 学問とは実学であり、机上だけの学問などなんの意味も有りません。学びと行動、それが一致して初めて生きた学問となります。
 君達は、大学の講義や、インターネットなどで知識や情報を得ることが出来ます。 しかし、知っていると言うことだけでは物事に対しての判断基準となっても「信念」とはなりません。人は様々な経験を積み、物事に対して深く考え、物事の本質を見通す優れた判断力を養うことにより、知識が知恵となり、初めて身に付いた学問となります。

大学に入って決心した事
 
 君達は大学に入学した時、この4年間で何かやろうと決心したものが有りますか?私は大学生になった時にまず心に決めたことは、私の部屋に縦、横、一間半(約2,4メートル)の本箱を置き、その本箱を大学を卒業するまでに読んだ本でいっぱいにすることでした。ですから学生時代はとにかく手当たり次第に本を読みました。寝食を忘れて読んだ時もあります。卒業した時にはその本箱は私の読んだ本で隙間が無くなっていました。

 しかし本なら何でも読めばいいというのではないということに後で気が付きました。 本はいっぱい読めば良いのではなく、良い本を時間を掛けじっくりと読み、読み返す事で理解が深まり、作者の心が伝わってきます。
絶対に読んではいけないのが「悪書」です。悪書と言えば皆さんはビニ本のことを思い浮かべるかも知れませんが、それだけではなく、直木賞などをを取った本にも悪書は有ります。つまり私が言う悪書とは、内容のない本のことです。
 悪書は人間の思考力、想像力などを歪めてしまいます。不健全な読み物は人間の精神を錯乱させます。多くの若者の歪められたいびつな精神は不健全は読み物やビデオ、インターネットなどによって引き起こされているといっても過言ではありません。
 悪書に対して批判や規制をしようとすると、表現の自由を楯にして、したり顔の文化人が声たからかに叫ぶが、彼等こそが日本の社会を悪の道に引きずり込んでいる元凶です。

本を読んで気付いたこと

 私が本を読んで気付いたことは、歴史上、名高く人物的に素晴らしいと評価されている人達、西郷隆盛、山岡鉄舟、吉田松陰、二宮尊徳。彼らは例外無く若い時に一生懸命勉学に励んでいるということです。それも並の勉強の仕方ではないということです。

 福沢諭吉が「福翁自伝」の中で彼が若い時学んだ緒方洪庵の緒方塾での生活の様子をこのように書いています。
 
「熱病に罹り病に伏せっていた時には、くくり枕で座布団や何かをくくって枕にしていたが少しずつ回復してきた時、普通の枕をしたくなり、当時は中津藩の蔵屋敷に兄と同居をしていたので友人に枕をしたいので蔵屋敷から持ってきて欲しいと頼んだ。友人は蔵屋敷に行きどこを捜しても見つからない。そこで私は、一年ばかり蔵屋敷で生活をしていたが一度も枕をしたことがないと言うことにはたと気が付いた。そこでの生活はほとんど昼夜の区別がなく勉強をし、勉強にくたびれれば、そのまま机の上にうつぶして寝るか床の間の床側(とこぶち)を枕にして寝るかで一度も本当に布団をしき、掛け布団を掛けて寝ることがなかったということにその時初めて気が付いた。」このことは諭吉だけが特別なのではなく、緒方塾の塾生はほとんどそうでした。とにかく勉強に関しては皆な励んだ、と諭吉は書いています。
 君達はこの話を人事のように聞いてはいけません。君達は学生です。一生に一度ぐらいはこのぐらい物事に熱中する時期がなくてはいけません。それが今なのです。学生の時にしか出来ないのです。多分そう言われてもピンと来ないし、出来ないだろうと心の中で思っていると思いますが、何故出来ないと思うのでしょうか。
 それは君達に「使命感」がないからです。彼たちは何故そのように死にものぐるいに勉学に励んだのか。彼たちに共通して言えることは決してお金の為や権力を得る為といった自利、自欲の為に勉学に励んだのではなかったということです。彼たちは自分を磨き、自分を高め、そうすることによって世の為に役立つ人間になりたいという思いで勉学に励んでいました。だから死にものぐるいで勉学に励むことが出来たのです。だからこそ今でも彼等の名前が歴史に残っているのです。
 私は学生時代に彼たちの修業時代の伝記を読み、いい意味での人間の精神の限界を逸脱していると思いました。つまり自分の志を遂げる為に死にものぐるいになって努力をしなければいけない。やはり人間は一度は狂わなければ何も得ることが出来ないのだ、ということを感じました。 狂えるのは若者の特権です。学生ならば少々の事は世間は許してくれます。ですから皆さんも是非狂って下さい。 
  狂うと言っても、ただ狂うのではなく、狂うためにはまず正しい「志」を持たなければ行けません。狂うということは、正しい志を持ち、その志を求めるためには周りが何と言おうが、相手にされずとも構わず邁進することであり、ただの狂人と化すのとは意味が違います。しかし何が正しくて、何が悪か、正邪善悪の区別を付けるためにはまず「正しい志」を待たなければいけません。そして其の志が正しいかどうかの分別を養う必要があります。その為には先ほども言ったように多いに勉強し、知性や理性を養い、思慮を高める必要があります。


君達はなんの為に大学に来て勉強をしていますか?
 
 就職の為? お金を儲けて贅沢をする為? 自分が幸せに成る為?この様な個人の欲望の追求の為だけで大学に来て勉学するのでは心の寂しい人間が出来上がってきます。個人の幸せの追求、それも必要かも知れませんが、それだけでは世の中は良くなりませんし自分の心も満たされません。個の幸せの追求は利己主義を生み出します。自分さえ幸せになればといった我が儘で周りが見えない人間が出来上がってきます。

 本当の幸せというものは、いくら個人の幸せを追求しても得られないのです。本当の幸せというものは社会全体が安定した素晴らしい国であることです。私達が属している国、この国が素晴らしくなければ個の幸せなどあり得ません。個人の欲望のみを達成しようとすれば必ず世の中を歪めてしまう。個人の欲望を棄てた所に人間としての正しい道「正道」が見えてくるのです。
 人の為に尽くす。この心掛けが道徳の基本です。そして道徳はその民族の歴史と伝統の上に成り立つものです。道徳を失った国は必ず滅びます。そして国の繁栄とは、如何にその国の精神文化を高めるかと言うことです。精神文化をおざなりにした民族は心の芯が無くなり滅びていく運命に有ります。伝統的な精神文化こそが日本の未来を創る力となるのです。
 皆さんは是非、絶えず自らの価値を高めようと、勉学に励み、自己鍛錬を続け、思慮深く立派な人間に成ってください。そういった人間が増えたならば、世の中は正しい考えが正当な評価を受けるようになっていきます。正しい考えと行動を起こせる人間が社会の中に相当高い密度で散在すれば必ず良い国になっていきます。国民の質の高さこそがその国のレベルを表します。

君達の存在意義
 
 君達は今まで社会に為に何を尽くしてきましたか。君達の存在意義はなんでしょうか。親や世間の人が君達に支援をするのは何故でしょうか

 残念ながらまだ君達は社会のため、世の中のために何の役にも立っていないのです。では、社会に対して何の貢献もしていない君達の存在意義はなんだと思いますか。世間は君達の未来を信じ、期待を掛けています。私達大人は、将来君達が立派な大人になって我々の先祖が築き上げてきた文化を引き継ぎ、より発展させてくれる事を信じて君達に一生懸命投資をしているのです。君達はその思いに答えなければいけない義務があります。その為に今君達は勉強をし、人間としての基礎、基本をしっかりと身に付けなければいけません。
 そして、社会人になって今まで育ててくれた社会に対して恩返しをするために今は実力を付ける期間であると言うことを自覚すべきです。だからこそ、今どんなにつらくとも実力を付けるために一生懸命勉強しなければいけないのです。それらすべてが、将来の自分のためになるのです。
 君達には、志を高く持ち、人間とはかく有るべしといった理想を持ち、日々その理想に向かって努力する人間に成って欲しいと思います。そういった日々を送ることにより君らは自然と輝き、魅力の有る人間に成ります。是非、正しく高い志を立て日々努力してください。 努力をしなければ夢は絶対にかないません。そしていろんな事に挑戦して、体験してください。体験した事は必ず君達にとって役に立ちます。
 なぜ私が、志を高く持ち、それに向かって日々努力する事を君達に強調するかと言えば、その方が君達の人生が楽しくなるからです。夢と希望を持ち常にそれに向かって挑戦をする。これほど生き生きとして、楽しい人生はないのですから。

瀬戸塾新聞22号掲載記事(2006,2)
 
 
 

 

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