〜「自然・社会・人との触れ合い」・・・生きる力とは〜

瀬戸塾師範 瀬戸謙介

 今日は経験、体験する事の大切さについてお話しします。
 君たちも、体験学習で近くのお店に行って、社会の仕組みについて実際に体験しましたよね。この実体験をすると言うことはとても大切なことなのです。今まで自分が経験したことの無いことを経験することによってものの見方が違ってきます。また自分が本当に解らなかったことは何かをはっきりと自覚することが出来ます。
 実学でなければ本当の知識とは成らない
 例えば、君たちは学校で学んだり、テレビや本などでいろんな知識、情報を得ています。頭の中では理解をし、解ったつもりになっていることがたくさんあると思いますが、本当は解っていないことがたくさんあります。
 例えば、「地球、ふしぎ大自然」「動物奇想天外」と言った自然に関するテレビ番組があります。皆さんはその番組を見て、象という動物は、鼻が長くて、耳が大きく、鼻は手の代わりをしている、とか、猿にもさまざまな種類があり、それぞれの生態系の違いなど様々なことを学び、理解します。
 しかし、テレビや雑誌でいくら情報を伝えても、理解出来ないことがあります。それは、まず大きさです。像の大きさとリスザルの大きさの違いはテレビでは理解することが出来ません。
 17インチのテレビ画面でしたら像も、リスザルも17インチの画面に同じ大きさに映し出されます。それでは大きさの比較のしようがありません。
 臭いもそうです。いくらリアリティーあふれる映像でも臭いまでは伝えることが出来ません。
 そして、音もそうです。本物の持つ音の大きさ迫力は伝わってきません。音量は、テレビを見ている人が勝手に調整出来ますし、ディレクターの制作意図によって様々な効果音を流し実際とは異なったイメージを作り上げる場合もあります。
 しかし、実体験すると言うことは、実際に、目で見、鼻で感じ、手で触れ、耳で音を聞き、舌で味わう事が出来ます。そして座学や、映像では気が付かなかったことを発見し感動し、身に付ける事が出来ます。これが実習の持つ意味、大切さです。
 座学で学んだことを確認し身に付けるこれが実習です。
カヌー実習について
  今日は、私が学生達に環境教育の一環として行っている実習の一つ、カヌー実習についてお話しをします。
 カヌー実習とは、五日間カヌーに乗ってキャンプしながら川の上流から河口まで、水質や水生昆虫、植生などの調査をしながら下って行く実習です。
 なぜ環境教育にカヌーを選んだのかというと、川は山から海へとつながっており、さまざまな物を海へと運んでいます。また海から山へと運んでいます。つまり川は大地の血管なのです。周りの環境が悪化すると川が汚れます。人間でいうと、動脈硬化を起こしたような状態に成ります。川が枯れてしまうとその地域は砂漠化します。そういった地域は地球上にいっぱいあります。
 ですから川の上流から下流まで調査することによりその地域の環境がよく解ります。
 今までに私は、多摩川を初めとし、茨城県・那珂川、新潟県・魚野川、岐阜県・長良川、高知県・四万十川、など数多くの川を下ってきました。 それぞれの川にはそれぞれの顔があり下っていてとても楽しいですが、環境教育の勉強の場として考えたならば多摩川に勝る川は無いと思います。先ず、第一の理由は、多摩川は「建設省」今の国土交通省のモデル河川だからです。モデル河川というと聞こえが良いのですが要するに、堤防や堰などの新しい工法の実験の河川です。ですから河を下っていくと、失敗した悪い魚道や堰、環境を配慮した堤防などつぶさに観察することが出来ます。
 また、人間の生活の営みと言った観点から川を見ても、多摩川ほど変化に富んだ川は有りません。わずか100q弱と言った距離ですが、本当に人の住んでいないような渓谷から、ぽつんぽつんと民家が現れやがて集落を成し、採石場などの工場が現れ、市街地や住宅街を通り過ぎやがて大きな工業団地、羽田飛行場が現れ海へと流れています。
 多摩川ほど、人間の生活の変化、歴史を感じさせる川は少ないです。また川の流れが非常に変化に富んでおりカヌーで下ること自体とても楽しく、またとてもきつい川です。何がきついかというと、先ほど話した、国土交通省が建設した、堰が他の川に比べてとてつもなく多いことです。堰の手前では、水の流れが無くなるので漕がなければいけません。また、風が川下から吹き上げて来るときなどは必死に漕がなければカヌーは逆に川を上って行きます。また、堰の所ではボートを担いで渡らなければいけません。
 実習を行う前にテントの張り方、バーナーの扱い方などキャンプ生活の基礎知識など事前に勉強します。しかし、最初のキャンプ地に着き、いざテントを張る段になると必ずと言っていいほど途中で立ち往生します。なぜならテントを張る所が川原のため下が砂利でペグ(テントが飛ばないように固定する為の大きな釘のような物)が刺さらないからです。マニュアル通りなら物事をこなす事が出来るが、一歩外れると思考能力が停止してしまいます。

 私達は文明の過保護を受けている
 私達は日常生活において、文明の過保護を受けています。こういった物が有ったら便利なのに、こういった道具があったら助かるのにと思うと必ずどこかで売っています。便利で助かるのですがそれがあまり行き過ぎると、人間の知恵とか工夫をどんどんと奪ってしまい、考えない人間になってしまいます。困ったときに考え工夫することにより人間としての本能も磨かれます。しかし世の中あまりにも至れり尽くせりだと人間としての本能も奪われ、いざというときにただ突っ立て誰かの助けを待つだけになります。
 自然の中では限られた道具と材料しか有りません。与えられた環境の中で工夫する以外に有りません。無いものは有る物で工夫して代用するか、自然の中から調達してくるしか有りません。そこに人間の知恵と工夫が生まれてくるのです。
 テントを張るときペグが駄目なら大きな石を使う、大きな石がなければビニール袋に砂や小石を詰める。あるいはカヌーをテントのそばに持ってきてそれに括り付ける。有るものは何でも利用する。そういった柔軟な考えが必要です。

努力をしないで人の助けを待つ
 ほとんどの生徒はキャンプはもちろんのこと、カヌーも初めてです。午前中3時間ほどカヌー操作の基本を学び、初日の午後からいよいよスタートします。
スタートしてまもなく川が大きく左に曲がり、真ん中に大きな岩が有り1メートルぐらい落ち込んでいるところに出くわします。私は下ってくるカヌーに対してコース取りの指示などを与えるために先回りして落ち込みの手前の川の中に立ってコース取りなどの指示を与えます。
 スタート地点は流れが無くみんな一生懸命漕いできますが私の立っているところに近づくにつれ流れが速くなってきます。そうしてだんだんと目の前に大きな岩が迫って来ると。毎年必ず最初の2,3艇の者は私の方を見て漕ぐのを止めてしまうのです。私が大声で「そのままでは岩にぶつかる。とにかく漕げ」と大声で怒鳴っても、彼らは「そんなこと言っても最後には必ず先生が手を差し伸べ何とかしてくれる、だから判断に困ったときには、このまま待ってれば」と思っているので表情にも切羽詰まった所など無く「早くどうにかしてよ」と言った表情で私の方を向いて目で訴えている。そうしているうちどんどんと流され岩が目の前に迫ってくると、今度はパニックを引き起こします。ある者は固くなって目をつぶり、またある者は持っていたパドル(カヌーを漕ぐ道具)を手から放し、川に流してしまいます。
 そうこうしている内に岩にぶつかり、ひっくり返って流されていくはめになります。沈(カヌーがひっくり返ること)する前にどうして助けてくれなかったのですかと恨めしそうに目で訴えながら流されていきます。こういったことが2,3艇続くと「あれ、自分で何とかしなければ誰も助けてくれないんだ」と言うことが解りそれからは必死になって漕ぐようになります。

 
すべての行動、結果は自分の責任において行う
君たちに是非学んで欲しいのは、君たちは両親、兄弟、友達など多くの人に囲まれ、お互いに助け合いながら生きていますが、人はある程度までは困っている人を助けるために手をさしのべることが出来ますが、最後は自分で決断し解決しなければ何事においても前には進めないと言うことです。
 これはカヌー実習だけでなく人生すべてに関して言えることです。最終決断は自分でし、いかなる結果であろうとも人のせいにしない。あいつがこういったからとかこうしろと言ったからとか、とかく人は悪い結果に関して人のせいにしたがるものですが、自分の身に降りかかった出来事を人のせいにしても決して何の解決にもなりません。
 私の授業は環境調査の授業ですから調査方法なども勿論教えますが本当に生徒達に学んで欲しいことはこの点です。
「人に頼らず自分で考え自分で決断を下し、解決をする癖を付ける。」このことがこれから自分の人生を歩む上でとても大切な事なのです。
パニックほど自分を見失うものはない
自然の中で一番怖いのはパニックにおちいることです。パニックになると判断能力が無くなり命に係わる大事故へとつながります。大切なことはどんな状況におちいっても心を落ち着け、状況を見極め、適切な判断と行動をとることの出来る精神を養う事です。
 パニックにおちいらない為には、体験、経験する以外に有りません。人は自分が経験したことに対しては、有る程度落ち着いて対処することが出来ます。
 カヌーやラフティングの事故で一番多いのが岩の下に吸い込まれ抜け出せなくなって死亡する事故です。しかし、こういった状況におちいっても、その脱出方法さえ知っていればパニックに成らない限りある程度は大丈夫です。また川には危険な場所がたくさんあります。それを見極めることも経験です。
 こういった経験を積む事により、「五感」(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)が蘇ってきます。
 我々文明人は、動物としての本能、人間として本来持っていなければいけない感覚を失っています。その感覚「五感」を自然と接することにより蘇らせることが出来ます。この五感を蘇らせ養う事がこの実習の目的の一つです。そして、もう一つの目的は・自分を鍛え、実力を付けることの大切さを学ぶ事です。すなわち生きる力を身に付けることです。
一人一人が実力を付けなければ全体のレベルは上がらない
実力がなければ、いざといったときに何の役にも立ちません、役に立たないどころか他人のお荷物に成りかねません。また、自分に実力が無ければ困っている人を助けてあげることも出来ません。そして、どんなに個人的に能力、実力があっても、みんなの協力が無ければ 何事においても達成できないと言うことも学んで欲しいと思っています。
 川を下っていると、流れの真ん中にある岩に カヌーがぶつかりよく転覆します。運が良いとカヌーと乗っていた人とが転覆したまま流されていきますが、一番困るのはぶつかったカヌーが岩に張り付く事です。そうなると大変、ボートにかかる水圧はものすごいです。下手をするとカヌーが半分におれてしまいます。まず、カヌーの所まで行ってロープをくくりつけ、みんなで引っ張って剥がさなければいけません。
 川幅が狭い所ではひっかかったカヌーにたどり着くのは容易ですが、川幅が広く流れが速い所では、岩に引っかかったカヌーの所までたどり着くのが大仕事です。まずに上流から流れていって、カヌーにしがみつき、流されないようにカヌーにしがみつきながら潜ってカヌーの舳先にロープを結びつけなければいけません。そして結んだロープを皆んなで引っ張り岩から剥がすのです。この作業はみんなの協力がなければ絶対に出来ません。
 参加した学生達は初めは傍観者です。スタッフが一生懸命カヌーの救出作業をやっていても、ただぼーっと突っ立ているだけです。誰かがやってくれるだろうと思っています。カヌーを沈させ岩に引っかけた張本人でさえも、スタッフの動きを見て笑っています。私が叱咤激励し、怒鳴りつけて初めて事の重大性に気が付きます。そして、そこでやっと自分たちも一団となって協力し合わなければこの実習は成功しないのだと言うことを実感します。
  街の中では、お金さえ有ればほとんどの事は解決しますが、自然の中で はいくらお金があっても役に立ちません。お互いにフォローしあっていかなければ生きていけません。
 こうやって五日間苦労をし、自分の力で自然と向き合いやり遂げると、自然と自信が体からみなぎってきます。
 今、自然の中ではお互いに助け合っていかなければ生きていけない事を話しましたが、街の中でも本当は同じです。自然界ではそれが如実に表れるだけです。街で暮らしていると、とかく誰の世話にならなくても生きていけると言った錯覚に陥りやすいですが、本当は私達は社会の一員であり社会に助けられて生きているのです。
君達に期待する事とは
君たちが経験した「体験学習」「職業体験」も同じです。ただただ時間つぶしで行ったのだったらお店の人にとって大変な迷惑な話しです。
 何も出来ない者がひょっこりお店に来て手伝うと言ったって、邪魔者以外の何者でもありません。それをを快く受け入れてくださったお店の人、そのお陰で貴重な体験をすることが出来たのです。それは、君達を社会の一員として育てたいと言った施設やお店や企業など多くの人々の温かい気持が有ったからこそ実現したのです。だから君達はそのことに関して「感謝」しなければいけません。
 そして、お店に立って君たちは、お店は商品を仕入れ、あるいは材料を仕入れ加工してお客さんに販売すると言うことを学んだことと思います。
 そこで感じて欲しいことは、自分の周りにあるすべての物が多くの人の手を経て最終的に消費者、君達の手に渡っているということ。君たちが今着ている洋服、あるいはボールペン、ノートどれ一つとっても君たち自身が作った物はなということを。君たちはただの消費者であり、何ら未だ社会貢献をしていないこと。
 言い方は悪いかも知れないが、君達はまだ社会のために、世の中のために「何の役にも立っていないのです」
 では、社会に対して何の貢献もしていない君達の存在意義はなんだと思いますか。君達が子犬や子猫を見ると可愛く思うのと同じく、子供というものは大人にとってとても愛くるしく愛しい存在です。家に帰って君達の笑顔を見るとまず心が癒されます。そしてこの子供達を不幸にしてはいけない、この子供達の為に良い社会にしなければいけないと思い、一生懸命働くのです。しかし愛くるしいだけではペットと同じです。君達は何時までもペットでいてはいけないのです。いつかは一人の人間として独り立ちしなければいけないのです。そして私達大人も、将来君達が立派な大人になって我々の先祖が築き上げてきた文化を引き継ぎ、より発展させてくれる事を信じているのです。
 君達はその思いに答えなければいけない義務があります。その為に今君達は勉強をし、人間としての基礎、基本をしっかりと身に付けなければいけません。
 そして、今の自分は大人になったときに、今まで育ててくれた社会に対して恩返しをするために実力を付ける期間であると言うことを自覚すべきです。
だからこそ、今どんなにつらくとも実力を付けるために一生懸命勉強しなければいけないのです。それらすべてが、将来の自分のためになるのです。
 志を高く持ち、人間とはかく有るべしといった理想を持ち。日々その理想に向かって努力する人間に成って欲しく思います。
そういった日々を送ることにより自然と輝き、魅力の有る人間に成ります。
 是非、正しく高い志を立て日々努力してください。 努力をしなければ夢は絶対にかないません。
そしていろんな事に挑戦して、体験してください。体験した事は必ず君達にとって役に立ちます。
 なぜ私が、志を高く持ち、それに向かって日々努力する事を君達に強調するかと言えば、その方が君達の人生が楽しくなるからです。夢と希望を持ち常にそれに向かって挑戦をする。これほど生き生きとして、楽しい人生はありません。

 

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