武士の歴史 第4回
~平家の滅亡~
平家滅亡 |
源平の戦いというと、源氏と平氏の氏族がそれぞれ源氏は源頼朝を担ぎ、平家は平清盛を頂点とした氏族対氏族の決戦のように思われていますがそうではありません。また、平家が弱くて源氏が勇猛果敢と行ったイメージも違います。今回は、こういった事柄を解きほぐしながら話を進めていこうと思っています。 |
平家物語によると、富士川の合戦の前日に平家の総大将の維盛(これもり)が関東にくわしい斎藤別当実盛を呼び寄せ 「さて、実盛、そなたほどの強弓を引く者が、八カ国(坂東のこと)にはどれほどいるか」と聞くと、実盛は 「ざらにおりまする」 「関東の武者の弓は三人張り・五人張り(注一)、矢の長さは十四束・十五束(注二)です。矢継ぎ早に射出す一矢で、二,三人射落し、鎧の二,三領を射通します。大名は部下五百騎以下の者はおらず、その中にこうした強弓の者二,三十人はおりまする。無下の荒れ郷一所の主人でも弓の上手の二,三人はもっておりましょう。馬と申せば牧場から選び取り、飼い慣らしたる逸物(いちもつ)を一人に五匹、十匹は引かせております。朝夕の鹿狩り・狐狩りに山野を家と思って乗り回しているので、どんな難所でも落ちる事を知りません。坂東の習いで、合戦の時には、親も討たれよ、子も討たれよ、死ねばその屍(しかばね)を乗り越えて戦います。西国の戦いは親が討たれれば供養の法事をすませ、子が討たれれば嘆き戦いを中止します。兵糧がなくなれば田を作り、刈り入れた後に戦おうとします。夏は暑い、冬は寒いと嫌います。東国の戦は決してそのようなことはございません。 味方の兵士はみな畿内近国のかり武者(注三)どもで、親が傷つけば、それにかこつけて一門とも退却し、主人が討ち死にすれば郎党はたちまち逃げ失せてしまいます。馬は馬喰から買い集めたものばかり、出京の当座こそ元気よく見えますが、今は疲れ果ててものの役に立ちませぬ。人といい、馬といい西国の二十騎、三十騎がかりでようやく東国の一騎に相当するぐらいでしょう」と伝えた。 と書かれています。しかし戦の前夜に平家の総大将がこのような事を聞き、また聞かれた方がこのように敵を賞賛するとは考えられません。 斎藤実盛自身、富士川の戦いの時にはまだ平家方の軍勢に参戦していなかったという資料もあります。この箇所は平家物語の作者の創作と思われますが、此の一節がその後の源平の戦いの状況を暗示しており、これからの戦の場面を読者に一層鮮やかに想像させる役目をおっています。 (注一)三人張、五人張・・・弓の弦を張るのに三人掛かり、五人掛かりでなければ張る事が出来ない強弓 (注二)十四束、十五束・・・矢の長さが手のひら十四,十五つかみ即ち一メートル以上の大矢であること (注三)かり武者・・・主従関係でなく、朝廷の命令でいやいや駆り出された者 |
保元・平治の乱で話したように、武功の面において平清盛は源氏方の面々に比べひどく劣っていました。それは武士としての基盤が劣っていたからです。初めに武士としての頭角を現してきた源氏に対してその勢力を退けるために白河法皇が平正盛(清盛の祖父)を取り立てたのが平家が中央に出ていくきっかけでした。平家の基盤は、伊賀、伊勢、備中、備前など西国で、西国は小名主が多くまた、瀬戸内海を働き場とした海賊で独立心が強く、東国の源氏のように土地を中心とした固い結びつきがありませんでした。 平家が中央での権力の基盤を固められたのは白河法皇、鳥羽法皇、後白河法皇と三代にわたって上手く権力の勝ち組に引き立てられたのと、当時の人の中では抜群に商才があり積極的に宋との公益を行い巨万の富を築いた結果です。 平家は源氏の武者達と比べて文化的に際だって洗礼されており、以後の武士の振る舞い方において多大な影響を与えていることは疑いの余地は有りません。 |
平家方の武将たち |
斎藤別当実盛 実盛は保元の乱、平治の乱ともに、源義朝に従って戦ったが源氏が滅んだ後は平家に仕えました。彼は平宗盛に仕え、その武勇と重厚で実直な性格が見込まれ重用されました。以前源氏に仕えていた多くの武将が頼朝の旗揚げに駆け参じましたが、義理にからまれ実盛は源氏方に付く事が出来ませんでした。 義仲征伐のため京都を出発する際に、「『錦を衣(き)て故郷に帰る』と言った古語があります。越前は私の故郷で有ります。私の身分では錦の直垂(ひたたれ)(注四)を着る資格はありませんが、願わくば老後の面目にこれを来て越前に帰ることを許していただきたい。」と願い出、許しを得たのです。実盛は今回の戦を最後と覚悟し、死出(しで)の晴れ着に錦の直垂を選んだのです。平宗盛も実盛の心情を察し、手ずからさし与えました。 実盛は、出陣前から死を覚悟し「髪を黒く染めて、若やごうと思うのだ。というのも、若武者たちと争って先駆けするのも大人げない、かといって老武者といわれて侮られるのも口惜しい」といって白髪を黒く染めて出陣していました。 平宗盛が率いる平氏軍は倶利伽羅峠の戦いで木曾義仲に敗北し、京方面へ北陸道を上っていったが、源義仲軍はすぐに追撃を始め、加賀篠原の地で平氏軍を捉え、総攻撃を仕掛けました。敗走中に追撃を受けた平氏軍はほとんど交戦能力を失い、義仲軍が大勝しました。この戦いにおいて、平氏軍の老将斎藤実盛は自陣が総崩れとなる中、最後尾の守備を引き受け、老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将、手塚光盛によって討ち取られました。 この戦いに先立ち、実盛は関東の武士たちと酒を酌み交わしながら「よくよく情勢を判断するに源氏のほうは益々勢いがさかんになり、平家の負け色は火を見るよりも明らか、どうだ、みんなで木曾方に寝返らないか」と語りかけみんなの信義を計りました。これは仲間を試す誘いかけでした。翌朝、実盛は酒を酌み交わした者達に気持を聞くと、俣野五郎影久が「我々は東国ではこの人有りと名が知れ渡っている者だ、情勢によってあっちへ付いたり、こちらへ加勢したりするのは見苦しい事である。影久はすでに今度の戦で平家に付き、討ち死にする覚悟が出来ている」と言いました。これを聞いた実盛は真意をうち明け、自分も同じ死ぬ覚悟であると伝えました。その場に居合わせた関東出身の武将二十数名はすべてこの時の戦で討ち死にしました。平家物語では「今度北国にて一所に死にけるこそ無慙(むざん)なれ」と彼たちの行動を憐れんでいます。 「平家物語」卷七「実盛最期」の場面は屈指の名場面の一つです。実盛が討ち死にの時に着用していたと言われる兜と具足が石川県小松市の多太神社に奉納されており、国宝に指定されています。奥の細道の旅の途中に立ち寄った芭蕉は実盛の兜を見て「むざんやな、甲(かぶと)の下のきりぎりす」の一句を読みました。 (注四)錦の直垂(ひたたれ)・・・錦は金糸銀糸で模様を織り出した絹織物。錦の直垂は大将軍の装い。 |
平 敦盛 平敦盛の最期も『平家物語』により広く知られています。 「一ノ谷の戦い」に破れた平家の公達らが、沖の助け船を目指して、続々と、落ち延びて行きます。敦盛は友軍から離れてしまい、一騎で沖合いに浮かぶ友軍の船団に戻ろうとしたところ、そこに武蔵の国住人、熊谷次郎直実が現れ、敦盛を見つけるや「あれは如何に、よき大将軍と見受けたり。見苦しきかな、敵に後ろを見せるとは。返えさせ給えや」と呼び止めました。 呼ばれた武者はきびすを返し、やがてその招きに呼応するかのようにして波打ち際に馬を寄せてきました。 両者は近付き、武者が波打ち際に上がろうとするところを直実が馬を押し並べ、むんずと組み討ち、二人は二頭の馬の間にどっと落ちました。公達育ちの敦盛が歴戦の勇士である直実に力でかなうわけもなく、その場に組み伏せられてしまいました。 直実が武者を取って押さえ、その首掻かんと、兜を押し上げて見ますと、薄化粧して、鉄漿(おはぐろ)をした、我が子小次郎の年頃にて、十五,六才ばかりの、容貌まことに美麗な若武者でした。 「そもそも、貴方様は、如何なる御方におはします。御名をお聞かせ下され。その命、御助け致そう」、と名をたずねたところ、逆に「かく申す、そなたは誰そ」と問われ直実に名前を名乗らせた上で、「そうか、ならば、そなたには名を名乗るまい。但し、そなたにとっては良き敵ぞ。名を名乗らずとも、この首取って人に問え、知らぬ者は有るまい」直実は若武者ながら立派な態度に感銘し「よし、この命、お助け申そう」と、直実が心に決め、後を振り返えって見ると、土肥実平・梶原景季ら、源氏勢五十数騎が迫ってきていました。 もはや助けることは出来ないと思い、はらはらと涙を流しながら首を掻き落としました。取った首を包もうとして(当時はこうする事が身分の高い人への礼儀であった)、鎧直垂(よろいひたたれ)を解いて見ると、錦の袋に入った笛が、若武者の腰に差してありました。 この笛を見た瞬間、昨夜砦の外に出た時に平家の陣営から聞こえてきた笛の音を思い出し、「嗚呼、おいたわしや。この暁に、城の内にて管弦遊ばされていたのは、これらが御方達であったか。今、東国の勢は何万余騎居るが、戦さの陣へ笛を持ち来る者はまず居まい。公達の何と優さしい心根よ」と嘆き、これがきっかけで直実は平家との戦いが終わった後に出家し仏門に入いったと言われています。 敦盛は横笛の名手であったと伝えられています。 『一ノ谷合戦』の際にも腰に携えていた笛の名器「小枝(さえだ)」は祖父にあたる平忠盛が鳥羽上皇から賜ったもので、忠盛から父の経盛に伝わり、そして敦盛に伝えられたものです。 『青葉の笛』と言う小学唱歌が有りますが一番は平家の武将・敦盛、二番は忠度(ただのり)を歌った曲です。 一、一(いち)の谷(たに)の 戦(いくさ)やぶれ 討(う)たれし平家(へいけ)の 公(きん)達(だち)あわれ あかつき寒(さむ)き 須磨(すま)の嵐(あらし)に 聞(き)こえしはこれか 青葉の笛 二、更(ふ)くる夜半(よわ)に 門(かど)を敲(たた)き わが師に托(たく)せし 言(こと)の葉(は)あわれ いまわの際(きわ)まで 持(も)ちし箙(えびら)に 残れるは『花や今宵(こよい)』の歌 ※箙(えびら)・・・矢を入れて携帯する容器 敦盛の行動には、武士道精神の基本とされる、「名を惜しむ」心があります。 熊谷直実の物語には、憐憫(れんびん)、ものの哀れ、慈愛心などが芽生えています。これなどはやはり他者への哀れみの心、ここにも武士道の徳目が表れています。 |
平 忠度(ただのり) 平忠度は清盛の弟で薩摩守忠度として知られています。『平家物語』の中の「忠度都落(みやこおち)」の話もよく知られています。木曾義仲が倶利伽羅峠の戦いで平維盛ひきいる七万の軍勢を打ち破り、京へと攻め込んでいきました。 一一八三年七月二十五日、平家一門は邸宅に火を放ち都を落ちていきました。七月は当時の暦では初秋です。都の六波羅・西八条・などにあった平家の館が炎上し、甲冑の触れ合う音、馬のいななき、武士たちの慌ただしく行き交う姿を見て、都の人々は不安にかられていたときにいったん都落ちしていったはずの平家の武者七騎が甲冑姿で、固く門を閉ざしていた藤原俊成のもとに表れ平忠度と名乗り開門を迫りました。落人が帰ってきたと騒ぐ人々を静めて藤原俊成は平忠度と会うと、忠度は、勅撰和歌集撰集の編纂の御沙汰があったときには一首でも私の歌を載せて頂ければと自作の和歌百余首をしたためた一巻の巻物をとりだし俊成に預けて去っていきました。 後に藤原俊成によって勅撰集『千載和歌集』が編纂された時に、平忠度の次の歌が、「読人知らず」として載せられました。『千載和歌集』には、朝敵となった平家一門の武将・経盛・経正・行盛の和歌も「読み人知らず」としてのせられています。 「 故郷の花といへる心をよみ侍(はべ)りける 読人知らず 『さゞ波や 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山ざくらかな』 」 一ノ谷の戦いで、忠度は源氏数百騎に取り囲まれたもののこれらを打ち払いつつ海上の友船を目指したが、源氏の武将である岡部六弥太忠純と組み討ちとなり忠純を組み伏せ討ち取ろうとしたところを、忠純の従者に右腕を切り落とされ観念した忠度は名を聞かれるが答えず念仏を唱え、忠純に討ち取られます。ただ箙(えびら)に残された紙切れにはこう記されていたという。 「行きくれて 木の下かげを 宿とせば 花や今宵(こよひ)の 主ならまし」 この歌で平忠度であると確認されたのです。 |
那須与一 源義経は屋島の戦いで奇襲に成功し平家は沖合に逃げ舟を浮かべました。見ると義経方の人数はさしたる事はなく、体制を整えた平氏は引き返し波打ち際での激しい戦いが一日中続きました。日も傾き平家は沖合に引き返し、源氏も波打ち際に陣を構えたとき、沖より美しく飾った小舟が一艘、岸へ向って漕ぎ寄せて、渚より七、八段(7~80㍍)の所で、舟を横にして止まりました。「あれは如何に」、と見ると、船の中から年の頃なら十八、九ばかり、紅の袴を着た女房が、皆紅に日の出を描いた扇を船板に挟み立てて陸に向って手招きしています。義経は、後藤兵衛実基を召して、「あれは如何に」と、聞くと、「あの扇を射よとの誘いでしょう」と答えました。義経は「味方に、あれを射落とせる手練れ(てだれ)は誰かある」と問うと「手練れは数多居ますが、中にも下野国の住人・那須太郎資高が子にて、那須与一宗高こそ、小兵なれども腕利きに御座りまする、与一は空飛ぶ鳥を追って、三羽に二羽は必ず射落としまする」 与一、重ねて辞するが許されず、「されば、当たり外れは時の運、御下命とあらば仕りましょう」と答えた与一、御前を罷(まか)り出(い)でて、黒く逞しき馬にうち乗り、弓取り直して手綱をさばきながら渚へ駒を歩ませました。渚からは矢頃が遠くて届きそうにもありません。海の中に一段ばかり乗り入れましたが、それでも扇は七段ばかり、遥か沖合に見えます。その上、頃は二月二十八日午後六時ごろ、時々北風が激しく吹いて磯打つ波も高く、船は揺り上げ揺り据(す)えて漂えば、扇の的も定まりません。沖には平家が船を一面に並べ、陸には源氏が轡(くつわ)を並べて、海と陸から数千余名が固唾(かたず)を飲んで与一を見守って居ます。はやる気持ちを抑えて、静かに瞼を閉じた与一は、「南無八幡大菩薩・別して我が国の神明・日光の権現・宇都宮・那須の温泉大明神(上記参照)、願わくは、あの扇の真ん中射させ給え。もしこれを射損じたならば、弓折りて自害し、人に二度とこの面見せぬ覚悟。今一度、那須へ帰そうと思し召されるならば、この矢外させ給うな」と、心の内に祈念し目を開けますと、風は少し治まって、扇が射良げに見えました。 与一、時は今ぞと、鏑矢(かぶらや)を取って弓につがえ、キリリと絞ってひょっと放ちました。 小兵とは申せ矢の長さ十二束三伏(さんぶせ)(注五)余りにて弓は強し、浦には風切る矢鳴りが響き渡り、放たれた矢は狙いあやまたず、扇の要から一寸余りをひゅっと射抜いたのです。 鏑矢は孤を描いて海に落ち、扇は空へひらひらと舞い上がり、やがて春風に一揉み二揉みもまれて、海にさっと散りました。紅の扇は、赤い夕日に照らされて、白波の上に漂いながら、浮きつ沈みつ波に揺られておりました。 沖では平家が船端を叩き、陸では源氏が箙(えびら)を叩いて、海と陸からわき起こった大きなどよめきは、何時までも治まりませんでした。 与一の腕の素晴らしさに感激した、黒革威(くろかわおどし)の鎧着て白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)を持った平氏方の武者が、仰木を立てていた舳先の所で踊り出しました。すると伊賀三郎義盛が与一の後ろへ歩ませ寄って、「君命だ。あの者を射よ」と告げました。与一は弓を引き絞り射ると、首の骨をひょうふつと射て舟底へさかさに倒れていきました。 ここにも源氏と平氏の戦に対する考えの違いがよく表れています。 (注五)束・・・一束は親指以外の指四本の幅 伏・・・一伏は指一本の幅、三伏(さんぶせ)は指三本の幅、 |
壇ノ浦の合戦 |
平 教経 寿永四年(一一八五年)三月二十四日の早朝、満潮の壇ノ浦で決戦の火蓋が切って落とされました。最初のうちは平家が優勢でしたが、潮の流れが変わり始めると次第に源氏が優位になり、形成が逆転していきました。 この戦いの平家の総指揮官は新中納言知盛(とももり)、源氏の大将は源義経です。 壇ノ浦の合戦が終盤を迎えると沖合いには源氏の船がひしめき合い源氏の白い旗が林立していました。平家の赤い旗を掲げた船は骸(むくろ)だけを乗せて波間を漂うものが多くなっていきます。しかし、その中でただ一艘例外がありました。船首に立っているのは能登守教経。鬼のような形相で源氏に立ち向かい、矢が尽きると大太刀と大長刀を左右の手で振り回し片っ端から敵を海に放り込んでいきます。その形相と怪力に、教経の船が近づくと源氏の船はみな逃げ散ったとされています。 平家の総指揮官新中納言知盛は、既に勝敗が決まった今は心静かに自決することこそ望ましいと考え教経に使者を出しています。「能登殿、無駄な殺生はおやめなされ。 雑兵ばかり、それほどの敵ではございますまい。」とたしなめたとされています。 これを受けて教経は「さては、敵の大将と組討ちせよとの仰せか、心得たり」と言うと懸命に義経の船を探し回りました。ただ、義経の人相を知らないので立派な鎧甲(よろい)を着た小柄な武将を見かければその船に飛び乗って「判官はいるか」と叫び、義経の船を探し回ります。一方、義経は剛勇な教経が自分を探し回っていることを知り、あんな怪力の男と組んではかなわないと教経を避けていました。 ところが義経の船は潮に流され教経の船と出会ってしまいました。この時教経はすぐに彼こそ判官と確信し、「いざ組まん!」とものすごい形相で飛びかかり、間を妨げる郎党をなんなく海へ蹴りこみ義経を追いかけます。こんな男と組んでは勝ち目なしと見た義経は長刀を小脇に挟み二丈(約6メートル)ばかり離れた味方の船に飛び移り、次から次へと船を飛び渡っていき、ついには見えなくなったとされています。これが有名な「義経八艘飛び」です。 |
源平最後の決戦 この早業と跳躍力には、さすがの教経も呆然と見送るしかなく、このあと教経は「もはやこれまで」と武器を海に投げ込み甲や鎧の草摺(くさずり)も投げ捨てて、ざんばら髪の胴着姿となり大手を広げて「我と思わん者どもは、この教経と組んで生け捕りにせよ。鎌倉に下って頼朝にひとこと言ってやろうぞ、寄れや寄れ!」と叫びました。 最初は誰も近づかなかった源氏の中から土佐の住人、安芸(あき)太郎実光という男が受けて立ちました。この男は三十人力と言われるほどの怪力の持ち主で、弟の次郎と郎党の三人で教経にかかっていきました。教経はまず郎党を海に蹴り込み、左脇に安芸太郎、右脇に弟次郎を抱え「さあ、お前たち、(注六)死出の山(しでのやま)の共をせよ」と言うや海中に飛び込んだとされています。この時教経は26歳、戦さの天才義経を脅かした男の壮絶な最後でした。 (注六)死出の山・・・仏教で死後七日秦広王の庁に至る間にある険しい山。死の苦しさを山に例えたもの。 |
新中納言平知盛 知盛が、もはやこれまでと平家の最後を悟った時にとった行為、それは船内の清掃だったというのです。御所の舟に行き自らの手で塵をひろい、掃除をしました。中納言という高い地位にある者が自らの手で掃除を行ったということは、武士としての引き際、立つ鳥後を濁さずという事を行動で示した精神的文化の高さを物語っています。 |
平家敗北の原因 |
平家方の武者の活躍を見ても分かるように決して平家一門は武勇に劣っていただけの理由で滅びたのではありません。ではなぜ戦いに負けたのか。それは今までの戦は戦場でお互いに名乗り、鏑矢の合図をもって戦の開始の合図とするなど、多くの暗黙のルールが有ったのを、義経がそれら当時の常識を破る奇襲戦法を多く用いた事が大きな理由と思われます。 福原の一ノ谷の戦いにおいても、合戦前日後白河法皇は平氏の陣営に「源平の和議の件でそちらに向かうので、交渉が終わるまで一切の戦闘をせぬように。このことは源氏にも伝えているので、平氏も徹底せよ。」といった院宣(いんぜん)(注七)を届けさせ、平家方を油断させて攻撃をするなど、従来卑怯とされた戦法を臆することなく用いたのです。 兄、範頼と京都に攻め入り義仲を攻め滅ぼした後、義経は平家追討の任を解かれ、範頼を総大将として平家追討を試みたが、平家の抵抗が激しく長引き、武士の中には東国に帰りたいと言い出す者も出てきました。そこで仕方なく頼朝は義経に平家追討の命を出すと、義経はただちに暴風雨を理由に渡海を反対する梶原影時を押し切り、徳島に渡り屋島を後ろから攻め奇襲に成功しました。この一撃が平家滅亡の決定打となりました。 最後の戦、壇ノ浦でも義経は水夫をねらい打ちにさせ、平氏方の舟は漕ぎ手を失い立ち往生しました。この船足を止める作戦は源氏に勝利をもたらしましたが、当時の戦では、非戦闘員を狙うのは卑怯とされ常識外の作戦でした。 このように義経が臆することなく当時卑怯とされていた戦法を、次から次ぎへと行えたのは、義経が幼少の頃に武士ではなく山伏に育てられたからではないかと思います。もし義経が武士に育てられていたならば卑怯な手を使う事は無かったでしょう。もしそうだったら平家は滅亡せず鎌倉幕府は成立しなかったかも知れません。熊谷直実のような例はありますが、源氏方の武将は総じて、武勇に優れてはいるが、荒々しくて美しさに欠けるように思われます。 (注七)院宣・・・院司が上皇又は法皇の命を受けて出す公文書。 |
平家物語は戦の物語ですが、その中に登場する人物は己の利害、欲望だけで動く人物ばかりではありません。今回紹介した様な目に見えない価値を守り、人間としての美しさを貫く為に死ぬ登場人物が沢山おります。こういう人間像を描いたのは日本文学史上「平家物語」が初めてです。 武士が現れる前の公家は、どんなに見苦しくても命の為には逃げ回ってもかまわない、生きているうちが花だ、という人達でした。現代を生きる我々にもそのきらいがあります。ところが新しく歴史に登場した武士は、命ではなく「名を惜しむ」、「恥を怖れる」という見に見えない価値を持った人達です。これが日本人のモラルの根源であると言えます。平家物語が琵琶法師により全国に歌い広められたお陰でこの日本人のモラルは身分に拘わらず広く浸透していったのです。先の小学唱歌「青葉の笛」も、七〇歳位の人は今でも歌えると思います。 私が「平家物語」を是非一度は読んで下さいと皆さんに勧める理由はここにあるのです。 |