武士の歴史 第3回

律令制度〜保元の乱

瀬戸塾師範 瀬戸謙介

 
 前回の勉強会では、『四世紀頃に氏姓制度が確立し、そのころから武士の原型が生まれた。大王氏族を頂点とする大和朝廷が国土を統一し、大和朝廷が成立した。大和朝廷は有力な豪族たちの集団を「氏(うじ)」と呼び氏を中心に統一された。氏上は大和朝廷の構成員であり,それぞれの地位応じて「臣(おみ)」「連(むらじ)」「宿禰(すくね)」というような「姓(かばね)」を与えた。これを「氏姓制度」という。』といった内容のことを話しました。
 四、五世紀の大和朝廷は比較的大きな豪族でしたが、絶対的な権力者ではありませんでした。六世紀に成っても日本各地には独立した氏族、族長は散在していました。
 七〇一年(大宝元年八月三日)、大宝律令が完成すると、あっという間に大和朝廷を中心とした統一性の高い国家が出来上がってしまいました。この時に「日本」という国の呼び名が法的に確定されました。(律・刑法 令・行政法)

 
 律令制度
  
 この法律の制定により、天皇を中心とした国家が確立したのです。律令制度とは公地公民であり、全ての土地と民は天皇の直轄にする。つまり各地方豪族から土地と民を没収し、代わりに律令制による位階が与えられました。しかし子弟が都で官職につける程の特権しか地方豪族には与えられなかったのです。地方豪族は自分の土地や民が公有化されるのを手をこまねいて見ているだけで、統一にあたって今まで独立し土地や民を私有していた権利を没収されるにも拘らず地方豪族による反乱や討伐などは起こらずに粛々と行われたのです。
 同じようなことが一八六九年(明治二年)の版籍奉還の時にも起きました。一滴の血も流さずに各藩が自分の所有している土地を中央政府の管轄になる事を認め、一夜にして日本が統一国家と成ったのです。
 二度もこのようなことが日本の歴史の中で起きていますが世界の歴史上このような事は見ることが出来ません。
七〇一年大宝律令が発布された時には、六六三年白村江の戦いで日本・百済の連合軍が唐・新羅の連合軍に敗れ、日本は唐の水軍が日本に攻めてくるのではないかといった危機感の中にありました。一八六九年(明治二年)の時には、欧州列強がアジアの全ての国を植民地にしようと日本にも迫ってきた時期です。日本が国家としての存亡に関わる大きな危機に直面したこの二つの時代に、私欲を捨て、公(おおやけ)につくすと言った気持が日本人全員の心に芽生えた出来事でした。
 この律令制度は農民に一定の耕地が平等に与えられる変わりに、国家は平等に租税を取り、労役、兵役も課しました。また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ、中央政府から派遣される国司に多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限を認めました。
 大和朝廷の支配する範囲は、平安時代の初め(八〇二年)坂上田村麻呂が蝦夷の首長アテルイを降伏させ岩手県水沢市に胆沢城を築き、鎮守府を多賀城より移し、一応今の岩手県の中部あたりまで伸びていたが、実質的には白河ノ関以北は蝦夷人が支配していました。東北地方が完全に日本の領土として統一されたのは頼朝が平泉の藤原氏を滅ぼした時からです。

武士の起源・坂東武者

 
 平安時代になり国が安定し戦が少なくなると、経済的負担を軽減するために農民による徴兵制度を廃止し、地方の豪族などの中から武芸に優れた者を招聘し「健児制(こんでいせい)」に切り替えました。常備軍が廃止になると地方の治安が悪化し、集団的な強盗団が勃発しました。治安を維持するために地方の地主達は領内の一族や領民を組織して武力を持ち、自らの力で治安を維持しなくてはならなくなってきました。これが武士の起源です。
当時の武士とは、身分を表すのではなく武力を持っている在地地主とその家の子、郎党のことを武士と呼んでいました。武士はこのような社会情勢の下に発生したので、特に武士発祥の地という所はなく、ほぼ同時代に全国各地で発生しました。
▼健児(こんでい)・・・奈良、平安時代に徴兵制を廃止した代わりに諸国の国府の守護、関所の警備等をまかした兵士。
 しかし「つわもの兵」武士の話をするに当っては、どうしても坂東侍が中心になります。坂東侍を抜きにして武士の歴史を語ることは出来ません。坂東の侍は気性が激しく、土地を中心とした結束が固く主従の関係も強い絆で結ばれていました。
 坂東とは箱根と碓氷を結んだ線の東側にある相模(神奈川)武蔵(埼玉、東京、神奈川東部)安房(千葉南部)上総(千葉中部)下総(千葉北部、茨城南部)常陸(茨城)上野(群馬)下野(栃木)の八カ国の地域を指します。
 坂東の原野は牛馬の牧場として最適であり、皇室の馬を育て養うところの御牧(みまき)や軍用馬を養成する国牧(くにのまき)などが九州地方と共に多く分布していました。
 坂東の人々は農耕と同時に狩猟生活も営んでいたので、気質は勇猛果敢、特に馬に乗り弓矢を使うことが巧みで武芸に優れていることから、九州防衛の防人(さきもり)や蝦夷鎮圧のために多くの坂東人が駆り出されました。
 先に書きましたように、大和朝廷の勢力範囲は平安時代の初め頃には岩手県の中部あたりまで伸びていましたが、実質的統治は白河ノ関以南でした。奥羽地方と接している坂東は常に小競り合いがあり、百年以上もの間、常時戦闘状態が続いていました。そのような状態が長く続くことにより、弓馬に長けた屈強な荒武者が多く排出し、そこから坂東武者気質が生まれてきたのです。
 また、奥羽地方では度々大規模な反乱が起こりました。しかし朝廷には常備軍がいなかった為に、朝廷はそのたびに征夷大将軍を任命し、征夷大将軍に任命された者は坂東に来て討伐軍を募集、編成し反乱鎮定のために奥羽地方に向かいました。従って事がある度に坂東の武者達は駆り出されました。このような条件の下、坂東人は鍛えられ戦闘に巧みな者が育っていきました。馬の供給地である関東は馬が豊富にいたこことから、馬を機動力とした武装集団が生まれ騎馬武者へと発達し勇猛で強健な武士の理想とされる坂東武者が生まれました。
▼奥羽地方・・・福島、宮城、山形、岩手、青森、秋田の六県をまとめての総称。
 奈良時代に藤原氏が中央政権の実権を握ったことにより、他の氏族は官職にありつくことが出来なくなり平安時代の初めごろから皇族の中から臣籍に下る者が相次ぎました。桓武平氏、仁明平氏、清和源氏、宇田源氏などがそうです。彼らは中央での立身出世を諦め坂東に新たなる永住の地を求めました。
 彼らは土着し財力に物言わせ未開地を開墾し大豪族へと成長していきました。承平の乱を起こした平将門は桓武天皇の血筋を引く者です。将門は九三九年に乱を起こすが、これを平定したのが源氏と平氏の武将達で、この乱をきっかけに両族は朝廷との結びつきを深くしていきました。

武士たちの日常
 
彼らの日常は、農耕、鍛冶屋、織物、炭焼きなどを営んでいました。勿論首長自ら率先して田畑を耕すのが普通でした。ですから農閑期以外に大規模な兵を動かすことは不可能でした。将門はその為に破れたのです。
将門は当時の坂東武者の気質をよく表していると思います。彼らは、武勇と面目を重んじ、義理堅く、女性に対してとても優しかったのです。将門は部下に戦で占領した時に一切女性を犯さないように命じており、またそれを守らせています。
 平維茂(これもち)も、藤原諸任(もろとう)の館を奇襲した時に女性たちには手をかけさせませんでした。
 平安時代中頃(十世紀末頃)律令制度が崩壊し始め荘園の乱立が始まり私有地が広がるにつれて、自分たちの領地を守り、さらに勢力を拡大する為に地方豪族は益々武装化していきました。
 
 武士の面目、名を惜しむ
 後三年の役(一〇八三年)
 源義家が清原武衡と家衡を金沢の砦に攻めたととき、義家の家臣に相模の住人鎌倉権吾郎影政という者がいました。影政は若干十六歳、最前線で戦っている時に敵の射た矢で右目を射抜かれ、その矢は首を貫き、兜に刺さりました。その痛手にも屈することなく、影政はその矢を折り、そうして矢を射返し、敵を撃退しました。陣屋に戻った影政は矢が刺さったまま仰向けになり、休んでいるところに三浦平太郎為次が通りかかりました。影政の状態を見て、影政の苦しみを早く取ってやろうと思い、影政の顔を踏んで刺さっている矢を抜こうとしたところ、その時影政は横になったまま刀を抜き下から為次を刺そうとしました。驚いた為次は「なにをするか」と訪ねたところ、影政は「弓矢に当たりて死するは武士の面目である。然るに、生きながら足にて顔を踏まれるは恥であるから、新たな敵と思い斬り殺す」と答えた。そこで為次は膝を屈め礼儀正しく顔を押さえてから矢を抜きました。この話は、いかなる場合に於いても武士は面目を重んじていた事を物語っています。
 義経の弓流し 
 八島の戦いで源氏方は馬を海に乗り入れ舟の平家方と戦った時の事です。平家方の狙いはもとより義経ひとり、舟から熊手をのばし義経を捕らえようと群がって来ました。源氏方も大将を打たれまいと必死に応戦し戦いました。戦っているはずみに義経は小脇に抱えていた弓を落とし、その弓が波に漂い平家の舟の方へと流れ出しました。それを見た義経は必死に馬の鞭でたぐり寄せようとするが敵が押し寄せてくる中なかなか上手く行きません。味方は口々に「弓など構わず、早くこちらへお引き上げ下さい」と叫ぶが義経は弓を拾うことを辞めません。やっと拾い上げ味方の陣に引き揚げてきた義経に「たかが弓一つ、なぜそのように惜しまれるのか」と聞いたところ「叔父為朝ほどの強弓なればわざと落としてもよいが、私の弓は弱い。大将の持つ弓がこのように弱いと思われたのでは源氏の恥である」と答えました。
 上記二つの話しはいずれも、武士たちは自分の命よりも如何に名を惜しんだかを伺う事が出来ると思います。このような出来事の列挙は武士の歴史の中にはいとまがありません。
 
貴族の時代から武士の時代へ
 保元の乱
 保元の乱は、兄弟である崇徳上皇と後白河天皇の権力争いに加えて同じく兄弟である藤原忠通(天皇側)と藤原頼長(上皇側)の権力闘争に武士が巻き込まれ源氏も平家も親子、兄弟合い分かれて戦った乱です。
源氏はもともと摂関家に雇われ、京都の治安維持と民政を所管していました。検非違使(けびいし)とは今の裁判官と警察官を兼ねた職で、権限は絶大でした。検非違使の長官にはおもに源氏が用いられ、それに対抗して白河法皇は平氏を徴用しました。
 平氏は、清盛の祖父正盛の時代に白河法皇が自分の警護にあたらせるために創設した「北面の武士」に登用され、伊勢から中央進出を果たしました。
 保元の乱で、清盛は夜襲をかけ崇徳上皇側が守っている西の門に襲いかかろうとした時、そこを守っているのが、剛の者として名高い源為朝と知ってそこを避け東門へと移動してしまいました。その後に来たのが源義朝の軍勢です。ここで源氏同士が一進一退の戦いを行い源氏は多くの勇者を失いました。
 保元の乱で後白河天皇側が勝つことが出来たのは源義朝の軍勢が最も活躍したことによってです。しかし、戦後の恩賞ではたいした働きもしない平清盛が莫大なる恩賞にあずかったのに対して源義朝は冷遇を受けました。
 平治の乱 
 平治の乱は後白河上皇の院政を取り仕切っている藤原信西(しんぜい)に対し不満を持つ藤原信頼が源義朝を引き入れて起こした乱です。信西を支えていた清盛が熊野詣でで京都を留守にした隙に、信頼と義朝が挙兵し、後白河上皇を幽閉し二条天皇中心の新体制をつくりました。清盛は上皇、天皇を押さえられ身動きが出来ない状態であったが、二条大宮に故意に火事を起こさせ、信頼からあっけなく上皇と天皇を奪回し信頼、義朝は敗れてしまった。
破れた義朝が東国に落ち延びようとしている時、藤原信頼は義朝に追いすがり随行を頼みました。今回の戦の敗因は信頼のうかつさから上皇、天皇を奪われたことが原因で朝敵となったことです。「日本一の不覚者」と馬の鞭で義朝に額を叩かれても随行をすがって求めてくる信頼の姿を見て、今まで蔑み散々利用してきた武士から辱めを受けてもただただ哀れにもすがりつくだけしか出来ない姿を見、公家という者の無力さを思い知ったのでした。これによって貴族から武家の政権への移行が加速していきました。
 平治の乱で破れ東国へ逃れていく途中、義朝は長田庄司忠致(ただむね)に殺害され、子
供の源頼朝は伊豆に流され、牛若(義経)は仏門に入り命は助けられた。後に平家を滅ぼした男は、実は平家に命を救われていたのです。
 保元、平治の乱で後白河上皇側が勝利を収めたが、この乱によって貴族の権力は失墜し、代って平家が政治の実権をにぎる。ここに武家政治の第一歩が始まるのです。

平家の台頭
 源氏と平氏の戦いは、粗野で純粋な武士が学問と知識に裏打ちされたずる賢い公家達に翻弄され、骨肉相別れて戦うと言った悲劇を生みました。しかしそうした苦難の中から武士達は着実に実力を付けて公家に変わる新しい勢力として台頭してきたのです。
 この乱を境に平氏の権力は揺るぎないものになりました。しかし平氏は急速に成り上がった為に、武士としての独自の政治機構を造る事が出来ずに旧来の権力機構に飲み込まれていきました。
 保元・平治の乱によって源氏の勢力は一掃され、平氏と対等となる勢力が失われました。公家達は今まで武士達を互いに牽制し合わせる事によって自分達の権力を維持してきたが互いに争わせるということが出来なくなりました。そこで後白河上皇は清盛を公卿(くぎょう)にし自分達の組織の一員に組み入れました。武士として昇殿を許された例は過去にも数例有りますが、武士で公卿になったのは清盛が初めてです。清盛の父忠盛りが昇殿を許された時には公家達から多大な反感を買いったが、清盛は白河法皇の落とし子であるといった噂があることによって受け入れるのにあまり抵抗はなかったようです。公卿となった清盛の昇進は早く、平治の乱からわずか八年で従一位太政大臣という最高の官位まで上り詰めました。
 ▼公卿・・大納言、中納言、参議および三位以上の朝官の呼び名。俗に「公家」ともいいます。
 平氏は朝廷の官位や役職の殆どを占め、貴族化していきました。武士の頭目であったはずの平氏が貴族化したことによって荘園を直接支配し、今まで築いてきた武士の基盤を排除しようとしたことで地方の武士から反感を招きました。
源頼朝挙兵
 平氏討伐のきっかけは一一八〇年(治承四年)、以仁王(もちひとおう)が源頼政と計って平氏討伐の檄文を諸国の源氏に送ったことです。この謀略はあっけなく鎮圧されましたが、これを機に各地で反平氏の気運が高まってきました。
 同年八月一七日に伊豆で頼朝が挙兵し、北条時政らと謀り、伊豆国の目代(もくだい)であり平家の一族山木兼隆の館を奇襲し殺害しました。
 同年八月二三日 頼朝以下三百名は神奈川県の真鶴岬付近にある「石橋山」に布陣しました。谷一つを超えた所に大庭景親の軍勢三千が前方に、後ろからは伊東祐親の軍勢三百が布陣しました。頼みとする三浦の軍勢は増水した酒匂川の岸でなかなか川を越えることが出来ません。三浦の軍勢が迫っていることを知った大庭景親は、夜になって頼朝軍への攻撃を命令し、ここに石橋山の合戦が繰り広げられました。
戦いは深夜におよび土砂降りの中、しかも急斜面を敵味方入り交じっての血みどろの戦いでした。 夜明け頃、総くずれになった頼朝軍は散り散りに敗走し、その時頼朝に従った武士は土肥実平以下わずか六名しかいませんでした。
 石橋山の合戦で敗れた頼朝、主従六名が朽木の洞に身を潜めているところへ平家軍の梶原景時がやって来て木の洞窟の入り口に蜘蛛の巣が張っていないことに気づき中を覗いて見た時、洞穴に身を隠している頼朝と目が合った瞬間、景時は「ここには居ない、別な所を捜そう」と言って、追っ手を率いてその場を立ち去りました。もしこの時、梶原景時が「頼朝、見つけたり」と叫んでいたら鎌倉幕府は成立しませんでした。平家軍に従っていた武士の中にも頼朝に心寄せる者が多数いたということです。
 石橋山の合戦で敗れた頼朝、主従六名が朽木の洞に身を潜めているところに平家軍の梶原景時がやって来ます。木の洞穴の入り口に蜘蛛の巣が張っていないことに気づき中を覗いて見た時、中に身を隠している頼朝と目が合った瞬間、景時は「ここには居ない、別な所を捜そう」と言って、追っ手を率いてその場を立ち去りました。もしこの時、梶原景時が「頼朝、見つけたり」と叫んでいたら鎌倉幕府は成立することはなかったでしょう。平家軍に従っていた武士の中にも頼朝に心寄せる者が多数いたのです。
 頼朝は石橋山で破れて千葉の安房に落ち延び、そこで同じく逃れてきた三浦氏一族と合流し体勢を立て直しました。連絡を受けた下総の千葉常胤はただちに下総の目代を攻め滅ぼし頼朝を国府に迎え入れました。頼朝の所に馳せ参じる地侍が大勢いたといっても僅か六、七百騎でした。そこにやや遅れて上総の平広常が二万の大軍を引き連れて頼朝軍に参加を申し込んできました。広常は、二万もの軍勢を引き連れてきたのだから諸手を揚げて歓迎してくれると思っていた所、頼朝は広常の遅参を怒って面会しませんでした。これを聞き広常はかえって頼朝に心服したと言われています。広常軍の参加を聞きつけた旧家臣らが馳せ付け頼朝軍は二万七千余騎にふくれました。その後も次々と援軍を迎え入れながら相模の国鎌倉に入ったのは石橋山の合戦で敗北してからわずか四十余日しか経っていませんでした。
木曾義仲
 頼朝の挙兵とほぼ同じくらいの時期に、甲斐源氏や木曾義仲など、平家に不満を持つ多くの武士たちが乱を起こしました。しかしそれは統率されたものではなく各自がバラバラに挙兵したのです。また様々な利害関係が入り組んでいました。
 源義広は一一八〇年の頼朝の挙兵に際して、甥である頼朝の配下に入るのをよしとせず、逆に頼朝の勢力拡大を不満に思い、一一八一年に頼朝討滅の兵を挙げる。しかし頼朝に破れた源義広は木曾義仲を頼って行きました。この事件を契機に義仲と頼朝との緊張は高まり一触即発の事態となりました。
頼朝と義仲との対立を好機と見た平氏は、総数一〇万とも言われる大軍を義仲討伐のために北陸方面に派遣しました。
 当初、義仲討伐軍の平家の軍勢は破竹の勢いで、加賀、能登にまで軍勢を進め義仲軍は連戦連敗、もはや義仲は窮地に追いつめられました。義仲は、一計を案じ、平家の大軍を倶利伽羅峠に誘い込み、倶利伽羅峠を背に布陣したところを、夜中牛の角に松明をつけて(角にたいまつを付けたのでは牛は前に一目散に走らないので、尻尾に火を付けたのではといった説も有ります)突進させ、あわてた平家の侍は我先へと逃げだし背後の崖へと落ちっていき、倶利伽羅峠は平家の兵の死体で埋め尽くされたと言われています。
 義仲軍の勝利を聞き及んだ東海、畿内の反乱軍も遅れてはならじ、とばかりに京都へと攻め込んでいき、平家一族はやむなく六波羅の館に火を放ち、京都を後に西国へと逃れていきました。
 入れ替わりに入場した義仲軍が見た光景は連年続いた飢饉のために餓死者が町中に溢れ、廃墟となった平安京でした。食糧不足に悩んでいる京都に多くの軍兵が押し寄せてきたのですからたまりません。寄せ集めで統率の取れない義仲軍は、早稲を刈って馬の飼い葉とし、あるいは白昼他人の家に押し入り強奪するなど乱暴狼藉を重ねたので、京都の人心は義仲から離れ、貴族達との対立もあらわになっていきました。
 後白河法皇は頼朝の上京をうながし、今回の功績の第一を頼朝、第二を義仲、第三を行家とし義仲を牽制し力の均衡を保たせ実権を握ろうとしました。
後白河法皇は先ず、義仲と行家を反目させ田舎育ちで無骨者の義仲を孤立させ平氏追討を名目に京都から追い出しました。
 頼朝はこれより三年前の「富士川の合戦」で一戦も交えず逃げ帰った平氏の軍勢を追いかけ京の都に攻め上り、政権を得ようとしましたが、三浦義澄、千葉常胤、平広常など挙兵以来の功労者に「今京に攻め上がるよりも先ず関東の地固めを」と反対され不本意ながらも鎌倉に引き揚げました。まず石橋山の戦いで手ひどい目に遭わされた大場影親を降城させ、また関東の反対勢力であるところの佐竹氏を滅ぼし、こうして南関東一帯を中心に頼朝は確固たる地位を築き上げました。
 もし富士川の戦いの直後に頼朝軍が平安京に攻め込んでいれば、頼朝は義仲と同じ運命をたどっていたことに疑いの余地はありません。三浦義澄をはじめとする関東の武士たちが、上洛しようとする頼朝を必死の思いで止め、鎌倉に引き戻させ地固めに全力を注がせた見識は、後の鎌倉幕府成立を見ても誠に正しい判断でした。
 頼朝が地盤を築くために行ったのは、傘下に入った武士たちの所領の支配権を保証する「本領安堵」と、今まで朝廷が任命していた官職、介(国司の次官)、庄司、郡司など大小様々な職に彼らを任命し、その地位を保証した事でした。職への任命は武士にとっては所領支配権の安堵を意味します。本来朝廷が任命すべきものを、頼朝が公然と越権行為を行ったことは、東国における新政権の誕生を意味します。
 当時武士に従う従者のことを「家人」あるいは「郎党」と呼んでいました。鎌倉に館を構えた頼朝のことを「鎌倉殿」と称し、その鎌倉殿に使える者に敬意を表し「御家人」とよぶようになりました。「御家人」のよび名は、室町幕府でも用いられ、徳川幕府では直参の家臣のことを指しました。
 御家人は本領を安堵してもらう変わりに鎌倉殿に対しての忠誠と奉公が要求されました。奉公とは、いざという時には頼朝軍に参加し戦うことであり、平時にあっては鎌倉の警備につくことです。
次回は平家滅亡と如何に頼朝が政権を手に入れていったかをお話します。以上

 

師範の講話集に戻る          TOPページに戻る